エノカマの旅の途中

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興津宿 ~清見寺と咸臨丸碑

清見寺は徳川家とも皇室とも所縁の深い古刹である。
明治天皇やこの地に海水浴に訪れた大正天皇の御在所、昭和天皇の宿舎ともなった。
少し高台にあって、往時は三保松原方面の眺望もよかったらしいが今は残念ながらその面影はない。
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今は境内を電車が横切っている
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総門
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線路を挟んで仏殿。足利尊氏の木像も安置されている
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大方丈と徳川家康御手植の臥龍梅
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この建物は文政年間の改築で琉球王子筆の額があり、また往来した朝鮮通信使の詩文が飾ってある。
裏手には家康が今川家の人質となった際に、この寺の住職の教えを受け滞在した「手習の間」があり、輿も残されている。
大玄関には梶原景時一族が戦った清見関の血天井もある→こちら
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鐘楼は豊臣秀吉の韮山城攻めの際に陣鐘として使われたもの
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庭園
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五百羅漢
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咸臨丸碑
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「食人之食者死人之事」咸臨丸の乗組員は徳川の食禄を食んでいたので有志は義に殉じた。
(人の食を食む者は人の事に死す。出典は史記漢の張良の言なり)

1868年(明治元年)8月。旧幕府海軍のいわゆる榎本艦隊は品川から蝦夷地に向かったが、その中で暴風雨に逢い
漂流した咸臨丸は清水港にたどり着き修理を図るが、官軍に発見されて船に残っていた乗務員がことごとく惨殺されてしまう。
その中には浦賀奉行所出身で長崎海軍伝習所の一期生であった春山弁蔵も含まれていた。
惨殺された七名は海に放り投げられ、新政府からは埋葬禁止が命じられたとされるが、かの有名な清水次郎長が処罰を恐れずに放置されていた遺体を収容して埋葬した。
明治二十年、この景勝の地に清水次郎長は清水港の発展も願って「咸臨丸殉難者の碑」を建てた。碑文は榎本武揚によるものである。

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by enokama | 2017-02-12 01:43 | 歴史連載 | Comments(0)