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エノカマの旅の途中

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鳥羽伏見の戦い~淀の激戦地と妙教寺

八番楳木戦場跡(千両松の戦い・2008年撮影)
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かつては競馬場前は川が流れていて、千両松と呼ばれた松並木の堤上でも戦いがあった。
最もこの戦いでの激戦が伝えられるところで、会津・新撰組兵と薩長因(鳥取藩)兵にも多くの死者が出たところ。
競馬場から線路を挟んで、電車からも確認できる所にある。
競馬場用地に囲まれたポツンとしたような場所にあり、かつて競馬場の駐車場工事のためにこの地にあった石碑を移動させようとしたところ
夜な夜な誠の旗を持った亡霊が現れたと言い、この地で改めて供養された。
ご覧のとおり新しい花がいつも、たくさん供えてあるようです。。。

周辺に住宅が建ち、雰囲気が変わった(2016年1月撮影)
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妙教寺
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妙教寺は淀駅(淀城跡)から1キロほど北の位置。
戦国時代の淀君ゆかりの城(淀古城)はこのあたりにあった。
こちらも鳥羽伏見の激戦の跡で、榎本武揚の碑と本堂に砲弾の貫通した痕が今も残されている。

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(2018年5月)

GW中の特別公開で本堂中に入り、有名な砲弾痕の保存の説明を受けました(砲弾と被弾した柱に組み付ける木片のふたが残されている)

このガラスの嵌った壁から位牌の並ぶ段の中に砲弾は飛び込み一本の柱を貫通し、本堂の端の板塀まで(白書きしてある)達した。

幸いにも不発に終わり被弾した柱には蓋のような板がつけられて、当時の住職により蓋内側に墨字で謂れが書かれてそのままに残されている。

砲弾も残されていて、レプリカの弾も持たせてもらいました。


この釣鐘や境内の墓にも弾の跡が残っている

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展示もあって鳥羽伏見の戦い開戦時には江戸にいた老中だった藩主・稲葉正邦が江戸から淀に戻るときに、すでに東下していた慶喜から朝廷へと託された謝罪文の入っていた稲葉家紋入りの文箱。
敗残兵の刀、稲葉家の藩士の袴があった。


こちらには田辺家と田辺治之助も墓がある
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淀の納所からかつての鳥羽街道が通じていて、現在は市内から続いている千本通の南端となっています。
結構、京都市内の通りが郊外に続いたりしているものなのであります。

この街道を京都市内に向けて、少し歩くと桂川の流れの東に愛宕茶屋の碑があります
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街道の茶屋があって、こちらも激戦地となった。



by enokama | 2016-05-13 16:40 | 私の好きな京都 | Comments(0)