パークス襲撃事件~刺客と断罪
パ―クスとミッドフォード、アーネスト・サトウらの公使館員、周辺には接待役である土佐の後藤象二郎、
その側近的存在である薩摩脱藩士・中井弘が英国警視と共に先頭に立っていた。
警護には英国連隊第二大隊分遣隊と肥後藩士300名が付いていた。
一行は知恩院の西側の参道ともなっている新橋通を西に進み、突きあたった縄手通(大和大路通)に出て右折し
北上、三条大橋東詰から鴨川を渡って御所へ向かい、天皇と謁見する予定だった。。
この襲撃事件が起きたのは、行列の先頭が縄手通に入り、最後の騎馬護衛兵が縄手通を曲がろうとした
瞬間であった。
縄手通の中井と朱雀が斬り合ったあたり(地図の赤印)
二人の刺客が往来から躍り出て襲撃してきた。そして列に沿って走りながら、狂気の如く斬りまくったのだ。
次々と英国人護衛らを中心に十一名が瞬く間に負傷した。
刺客の一人、朱雀操には先頭にいた中井が馬を下り対峙した。狂気を帯びた男は相当手ごわい。
そして、斬り合ううちに中井は長い袴の裾が足に絡みついて、あお向けに倒れた。
そこへ刺客は刀を振るうが、辛うじて頭にかすり傷を受けたまでで済んだ。間一髪である。。。
反撃した中井は相手の胸を突き刺し、そこへ駆け付けた後藤が肩に一太刀を浴びせた。
そのひるんだ瞬間に起き上がった中井は朱雀の首を取り、討ち取ったのである。
その時、300人もいた肥後藩士は沈黙していたと言う。
行列の最後(新橋通と縄手通の角から縄手通方面・地図のオレンジ印)
もう一人の刺客・三枝蓊は後列のパークスらの方向に向かって駆け込んでくる。
一人の英国歩兵警護隊士は頭部を斬られ重傷を負った。
そして、他の歩兵の小股にすくわれ倒れたところを銃剣で突き刺されたが、さらに民家の庭に逃げ込んだ時
放たれた拳銃の銃弾が下あごに当たり、ようやく取り押さえられた。
難を逃れた英国公使一行は一旦、宿舎の知恩院に引き返した。
負傷者はこの時期に京都に詰めていて、のち一連の戊辰戦争でも戦傷者に対し数々の外科手術を行い
命を救った英国人医師ウィリスも処置を行った。
ウィリスは三枝の応急処置も行い、中井らに取り調べられ監禁した。
この処刑前の三枝と討ち取られた朱雀の首の写真が残されている。
伊達宗城、小松帯刀、後藤、五代ら外国掛は協議の上で刺客二人の梟首を決定する。
一連の国際問題(神戸事件・堺事件)もあって、実現に困難を窮めた「天皇への謁見」がまたしても
妨害されたことで極刑を逃れることはできず、今後はこのような外国人への「攘夷行動」は一切認めないと
国内外に知らしめる断固たる姿勢を示したとも言えよう。
幾人の血も流れたが、それらの犠牲を以て「新政府の正当性」を諸外国に認めさせたのである。
粟田口で三枝は斬首され、朱雀の首とともに三日三晩、さらされた。
靖国神社には祀られることはないが、墓は霊山墓地にある(→こちら)
パークスの下には伊達宗城や松平春嶽が天皇の憂慮を伝え、謁見は三月三日に改めて行われた。
随員は負傷者が多かったため人数は減ったが、厳重な警戒が行われた。
また二条城に詰めていた元陸援隊士の川上邦之助、松林織之助、大村貞助にも累が及び
流罪となって京都を追われた。
五代は一連の事件解決いずれにもに関わり、この後は大坂に赴任することとなる。
ここから「大阪」との縁が生まれていくのであった。
(五代友厚関連)
五代友厚連載→その1・その2・その3・その4・その5・その6・その7・その8・その9
神戸事件→その1・その2・その3
堺事件 その1・その2・その3・その4
パークス襲撃事件→その1・その2
この事件、あまり資料らしい資料がなく、これまであまりよくわからなかったのですが、ここまで詳しく書いてあることに感服しました。
特に、「英国歩兵警護隊士は頭部を斬られ」とか「ウィリスは三枝の応急処置も行い」などという記述は初めて知ったのですが、もしよろしければ出典元を教えていただけませんでしょうか?
wikipediaにもないですからね。自分で書いてしまおうと書いてみました。(検索で出てくるもう一つのブログ記事は知人です) 主な文献は「一外交官の見た明治維新」下巻です。後は五代友厚関連です。