エノカマの旅の途中

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中岡慎太郎が見た四境戦争での長州軍の強さ

中岡慎太郎年表→こちら

慶応二年。長州再征(第二次征長・四境戦争)の頃の国元への慎太郎書簡。



一筆啓上候。秋冷の時節の御座候処。(中略)当年二月初旬以来、当国征伐として数万の軍勢幕府より
差向けに相成り候処、九州には老中小笠原壱岐守総大将として、肥後、肥前、並に久留米、柳川、小倉
その他凡そ二万人の人数を以て、豊前国小倉に陣取相成り、長州下関へ打入りの都合に相成り候処
長洲よりさかよせ致し、軍艦五隻を以て田の浦台場に打掛け、陸軍一千計り上陸に及び、一戦にて同所
を乗取り候。
七月三日大里に打入り、又大に勝利を得、同廿七日又打入り、海陸に戦争甚だ烈しく、朝六ツ時より台場
六ヶ所乗取り、真中一手は百四五十人位にて肥後の備に打入り、飲まず食はずにて七つ時迄戦ひ
右百四十人計りの中にて、手負死人百十何人に及び、残る者わづかに相成り候事にて其より大戦ひに
及ぶの覚悟に御座候処、老中初め幕府の軍勢皆々にげ去り、肥後其外の諸国の兵も皆引退き、終に当月朔日に小倉の城落城に及び申候。
 
以上は赤坂の激戦を語っており、大半の者が死傷したと言う。
九州諸藩の征長軍の指揮を取った老中・小笠原長行は外国奉行としては有能で、慶喜にも採り入れられたが戦の指揮には全くむかず、肥後藩士の記録では「軍旅の事には深き御思慮もこれ無き御方」として、酷評されている。
肥後藩家老・長岡監物は小笠原に対して常々戦術を巡っての不信感を募らせていて、赤坂の戦いで
長州軍の侵攻を止めはしたものの、ほぼ単独での戦いで(他の諸藩はほとんど働いていない)
戦術の不徹底で幕府海軍の攻撃も機能せず、幕府から応援の兵も出せないと聞き大いに憤り
進撃の不可と諸大名の招集が必要と言い残し、小笠原に無断で戦地を離れ、久留米・柳川も続いた。
小笠原自身も将軍・家茂の死去もあって、七月二十九日夜陰に紛れて富士山丸に乗船し長崎へと遁走した。
孤軍となった小倉藩は小宮民部の計(肥後藩士の進言もあったと言う)で小倉城を自焼し、藩領南部の
香春へと退き、ゲリラ戦の様相となって、しばらく長州との戦いが続いた。

此度の挙は長州甚だ強く、身方千人計りにて敵の二万人を打退け候上、兵糧米も四千石計り、大砲百丁余
玉薬幾蔵もこれあり候。皆々分取り致し申候。北口も石州浜田落城にて天領迄も取込み軍勢多く出張に
相成居り候。芸州は今以て大戦争にて未だ勝敗相片付き申さず候。いづれ早々勝利に相成り、皇国御一定
に相成り申さずては万民の苦一片ならずと心痛仕り居候。昨夜も陣所に宿し申候処、十三に相成候家老と
十六に相成候家老と皆同宿仕り候。食事は梅干握り飯の兵糧を食ひ、軍仕度其儘にて元より蚊屋ふとんも
これなく、かむと枕にて、足軽などと頭を並べて伏し居り申し候。少年ながら必死を極め戦争等仕り
感心の事に候。彼是申上度儀御座候へども、陣中の事故彼是取忙しく筆に着くし申さず恐入り奉り候。

万民の苦「心痛」という言葉と少年兵の苦労のことを書いている。ちなみに土佐での民兵の採用と言うのは慎太郎は勧めていない。
戦争の現実を知っている慎太郎が、坂本龍馬の「平和論」と比較して「好戦論者」とされるものも多いが
本当の真意と言うものは、おのずと見えてくるのではなかろうか。
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by enokama | 2015-07-05 20:44 | 中岡慎太郎関連 | Comments(0)