エノカマの旅の途中

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佐倉藩と蘭学~佐藤泰然の一族と佐倉順天堂

佐倉に来た一番の目的がこちら
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佐倉順天堂記念館は安政五年の建物が和室の主屋と洋風の付属室を中心として、今も残されている。
往時は2000坪の敷地で延べ1000人の塾生が学び「西の適塾。東の順天堂」とも称される。

幕末の藩主・堀田正睦は「蘭癖」と言われるほど、蘭学に傾倒した。
それを支えたのが年寄役・渡辺与一兵衛治であった。。。



正睦の「天保の改革」では積極的に蘭学の導入が図られた。
天保七年(1836)藩校・成徳書院に医学局を置き、漢方と蘭方の二科を設置。
天保九年 藩医の鏑木仙安が江戸の箕作阮甫に入門、のち長崎へ遊学。
(仙安の息子・立本は嘉永七年に大坂・適塾に入門、安政三年に京都・時習堂に入門。のち佐倉藩
 医学局で教授。仙安と同時期の蘭方医で新保玄貞の養子・朔茂も適塾に入門)
天保十三年 佐倉帰国の鏑木仙安が医学局で蘭医学を教授。  
天保十四年 鏑木仙安は同じ医塾・坪井信道の同門であった、成田山参詣でこの地を訪れていた
広瀬元恭(京都で時習堂を開く)らと共に佐倉江原刑場で人体解剖を実施する。

そして渡辺の尽力もあって天保十四年(1843)八月。長崎で学んだ後、江戸で蘭医学の塾を開き「和田塾」外科医としても開業し名声を博していた佐藤泰然を佐倉に招き、泰然自身も移住し蘭学塾「順天堂」を開き、当地で外科を中心とした診察も行い、その外科手術を中心とした実践教育を行った。
後述する林董の回顧録では、庄内藩の「三方領地替え阻止運動」で水野忠邦に睨まれた父の佐藤藤佐一族への迫害を恐れての佐倉移住もあったと言う。
ただ佐藤藤佐自身は水野の失脚もあって、江戸の次男・然僕のもとに留まり、その地で亡くなっている。
ちなみに「順天」とは、天道に従う(自然の理に従う)と言う意味である。

佐藤泰然
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佐藤泰然の父・藤佐は庄内藩遊佐の出身で「三方領地替え」の江戸における阻止運動での立役者の一人で、実弟・然僕は江戸詰の庄内藩医であり、その孫・桃太郎は幕府旗本として、幕末の戊辰戦争で徹底抗戦を貫き、庄内へと行くも「降伏」せず斬首となった三烈士の一人である。
和田塾は門人で、娘・つるの婿となる林洞海(のち幕府奥医師で「法眼」の医師最高位となる)に譲ったが、その泰然の孫にあたる二人の娘は榎本武揚(多津夫人)、榎本と同じ幕府海軍畑で欧州にも留学した明治維新後に海軍中将ともなった赤松大三郎(則良・貞夫人)に嫁いでいる。
泰然のもう一人の娘・きは(三沢良益に嫁ぐ)の娘・よしは、適塾の緒方洪庵の実子で後継者であった惟準に嫁ぎ、娘・もとは、箕作燐祥に嫁いでいる。
泰然の実子では林洞海の養子となった林董(のちの外務大臣)、松本良甫の養子となった松本良順
(幕府奥医師。箱館戦争時の榎本旧幕軍軍医として有名)がおり、佐藤家の跡取りは順天堂でも塾頭として蘭書の翻訳、外科手術で高い能力を発揮した山口舜海(佐藤尚中)が養子となった。
実子は養子に出し、自身の跡取りは弟子から養子を取っているのである。
舜海は長崎に留学しポンぺにも学んで泰然の後、順天堂を継いだ。

松本良順
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佐倉では慶応二年には佐賀に次いで、日本で二例目の牛痘法を実施し、正睦の子女や渡辺の娘が率先して行い、十二月には触れを出し、藩の医師すべてに種痘術を学ばせ、藩内すべての子女に種痘をするよう命じた。順天堂塾生もその接種に携わっている。
順天堂では多彩な外科手術も行い、診察室よりも病人宿に赴いての手術が多かったそうで、特色としては、その副作用による危険性を危惧し華岡流のような麻酔術を使わず行っている。
展示にあった「療治貞」には帝王切開や卵巣水腫術と言った婦人病、手足の切断、癌切除、包茎手術、眼病(白内障)、焼傷、乳がん・睾丸がん、整形外科にあたる造鼻術等の治療費の表もあり(麻酔なしではすごく痛そうだが「今日の患者はそれほど痛がらずに済んだ」と言った書簡や「手術承諾書」も残されている)
手術道具としては骨鋸、弾抜き、肛門拡張器や顕微鏡、ゾーフハルマも残されている。

それにしても庄内と佐倉の関わりは多いんですよね。。。
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by enokama | 2015-06-20 22:31 | 幕府東国諸藩 | Comments(0)