エノカマの旅の途中

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野村南海1年目の3番バッターが死去

「法政三羽烏」の一人で、南海ホークスOBの富田勝氏が亡くなられました。
ノムさんより先に逝ってしまうなんて若すぎます。
ご冥福をお祈りします。。。



ノムさんが「学歴のある奴は嫌い」と言われることも多いが、その最初の例と言われたのが富田勝。
大阪出身でサード不在の阪神タイガースが富田の第一志望だったが、W辻と言う二人の正捕手がいて
捕手王国だったはずの阪神がなぜか田淵を指名し、南海ホークスにドラフト1位で入団する。
2年目(野村監督1年目)サード3番に定着し、ホームラン23本と好成績を残すも、翌年「足のある富田を
1番に、門田を3番」と言う構想でトップバッターになるはずが固定されず(3番から1番へコンパクトな
バッティングも求められたしれず、戸惑いもあったかもしれない)結局は内外野兼用の守備位置たらいまわし
打順たらいまわしの仕打ちとなり、成績は年々低下しトレードとなる。

ちなみにノムさんはホームランバッターの育成はあまり好きじゃないようで、大砲は基本的に外国人任せとなり
1、2番タイプで南海の藤原・新井、ヤクルトの飯田のような選手の育成が得意。
ちなみに大砲・門田は「ホームラン狙うな」と注意したものの、門田がいうことを聞かなかったため
誕生したもの。広沢・池山は就任時にほぼできていたホームランバッターだった。。。
富田は一番、活躍した日本ハム時代でもサード・セカンド・外野といろんな守備位置で出場している。
ただ古屋の成長もあって、サードからコンバートされた後で中日にトレードされたので
日本ハムでは優勝の美酒にあえずに終わった。

その後の富田氏は以下の記者の方の記事が詳しいので紹介しておきます
(日刊スポーツ)
プロ野球の南海(現ソフトバンク)や巨人などで活躍した富田勝(とみた・まさる)氏が26日午後5時32分
肺がんのため、大阪市内の病院で死去した。68歳だった。通夜は28日午後6時、葬儀・告別式は
29日午後1時から大阪市阿倍野区阿倍野筋4の19の115、大阪市立やすらぎ天空館で。喪主は
長男大介(だいすけ)氏が務める。

富田氏は大阪府出身。法大では山本浩二氏、田淵幸一氏(ともに野球評論家)らと「法政三羽がらす」と
呼ばれた。リーグ屈指の内野手として知られ、在学中に3度の東京6大学リーグ優勝を経験。そんな
エリートも、プロ入り後は南海の新たなチームづくりによる逆風を味わった。監督兼捕手だった野村克也氏
(野球評論家)が「考える野球」を打ち出し、投手陣の補強のために長嶋茂雄氏(巨人終身名誉監督)の
後釜を求める巨人にトレードで移籍。その巨人はドジャース戦法を駆使してのV9時代終盤で、選手は
きら星のごとくいた。期待の裏側で外様の悲哀を味わった。

富田氏が巨人から「最大の殊勲」と言われたのは、9連覇に挑んだ73年10月11日の首位阪神との一戦。
負ければ優勝が絶望となる巨人は2回までに7失点。沈んだ空気の中で、4回に江夏豊氏(野球評論家)
から3点本塁打を放つと、打線が奮起して引き分けに持ち込んだ。そして最終戦の阪神に勝って9連覇を
達成した。「あの富田の一発がなければ9連覇はなかった」と当時のV9選手たちは言う。

近年は体調を崩し、入退院を繰り返していた。数日前に田淵氏や山本氏、法大、南海の後輩の
堀井和人氏(元オリックススカウト部長)らが病院を訪問。懐かしい元チームメートに別れを告げて旅だった。

◆富田勝(とみた・まさる)1946年(昭21)10月11日、大阪府生まれ。興国-法大を経て
68年ドラフト1位で南海入団。2年目の70年にリーグ最多の95得点。巨人時代は73年の終盤
長嶋が右手薬指を骨折したため、古巣南海との日本シリーズで全5試合に三塁手で出場。76年には
張本とのトレードで高橋一と日本ハム移籍。中日時代の81年にプロ野球史上2人目の全球団本塁打を
記録した。オールスター出場2回。現役時代は177センチ、75キロ。右投げ右打ち。

近年、ホークスOBの広瀬氏が著作を出されたが(ノムさんとは野球観がまったく違って、ブレイザーとも
合わず批判的だった)
代わりに入った山内・松原が活躍したり、トップバッターの藤原が誕生したこともあったけど
当時の南海には富田氏のような選手が必要であったのでは述べられているが、のちのチーム構成を
見てもそうだったんじゃないかなと思う。
野村ホークス初期「シンキングベースボール」の裏側にあった、富田氏の運命だった。
ノムさんのコメントも聞きたいものです。
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by enokama | 2015-05-27 20:14 | 総合 | Comments(0)