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中岡慎太郎の京都薩摩藩邸滞在~慶応元年二月の京都情勢

中岡慎太郎年表→こちら

慎太郎は三条実美の命もあって、博多から馬関を経て、薩摩の吉井幸輔・土佐脱藩で三条実美の
秘書的存在だった土方久元と共に上洛する。



二月十四日に京都に入り、かつて主に滞在した長州藩邸はもう無く、今回は薩摩藩二本松屋敷に
入ることとなる。このころの京都情勢を慎太郎は自身の日記に次のように記している。
(海西雑記)
二月十四日。吉井(幸輔)在京の人より近情を聞き来曰、過日関左より閣老(老中)両人、阿部(正外)豊後守
松平(宗秀)伯耆守上京、伯耆守は歩兵隊三千を引率し来る由。其含みの大意は、幕威を張り、恐多くも
朝廷を要奉らんが為、尾老公、一橋公、会候等を関東に下し、諸藩の兵を国々に返し、伯州歩兵を以、
暫く朝廷を守護奉り、遂に安対(安藤対馬守)及酒井若州等を以、先年の如くせしめ、旦諸候参勤を復古し
妻子の国々に返し返しを復古せんとす。且又毛利候父子を関東に引出し、五卿方は五藩より関東に出し
候様致ん為め、大監察(小林甚六郎)等己に発せり。尾老公の兵を大坂に止めしむ等の事を聞く。

全権委任を受けて、征長総督を全うした元尾張藩主・徳川慶勝は(元治二年(慶応元年)・1865)正月から
尾張への帰国が叶う三月まで京都に朝命で足止めされていた。さらなる具体的な長州藩正式処分を
決定するには、朝廷での協議に将軍・徳川家茂の上洛が不可欠とされていたからである。
このころ、江戸幕閣の強硬論者からは慎太郎の日記にあるように、長州藩の「毛利父子」(藩主・世子)
及び「五卿」の江戸召致、京都での朝廷の下「禁裏御守衛総督の慶喜・会津守護職・桑名所司代」の
体制を所司代に従来から任命されることの多かった若狭小浜藩の酒井候等を復帰させ京都の
治安維持にあたらせることで、いわゆる「一会桑」の京都での勢力を退け、緩まっていた「参勤交代」の
旧制復活を求め、まったくの在江戸幕閣主導での「旧制」への復活を求める動きも出てきていたのである。

これに対し慶勝は「斯くては長防の士民非常の変動起し、延きて天下の大乱にも及ぶべければ(略)
五卿についても已み難き事情ありて、此頃暫く松平美濃守(筑前藩黒田家)等へ引渡したる程なれば
江戸へ呼寄せの事も暫く御猶予ありたし」と言上する。諸外国との外交問題も数多い中、せっかく
内戦回避で解決したのにまたもや「火種」を生みかねない。今度ばっかりは長州側も死にもの狂いで
戦ってくるだろう。自身の行った処分が全く水の泡になってしまう。

このころ在京していた大久保利通と小松は二条関白や中川宮に働きかけ「長州藩主父子出府停止」
「参勤交代の復旧」の動きを停止するため、御沙汰書を出させることに成功し、この薩摩の動きに反発する
一会桑等の勢力を抑え、老中・本荘宗秀が江戸に持ち帰ることとなった。しかし江戸では再度の征長を
求める進発論が勝り、京都で朝廷の下での将軍を交えた長州処分の協議を話し合うまでもなく
「長州再征の進発ありき」での将軍・家茂の上洛が決定する。
四月十九日には(長州に)「容易ならざる企て」があるとして、将軍が五月十六日に江戸を「進発」する
ことが幕府から諸藩に布達されるが、前年の「第一次征長」での長州処分をまったく否定するものであり
当事者である総督の尾張・副総督であった越前(福井)、そして具体的な交渉にあたった薩摩は当然
「再征長不可」を訴え、備前・肥後と言った藩からも「軽挙、慎むべし」との意見が出された。

慎太郎の日記では吉井や小松帯刀が尾張藩附家老・成瀬隼人正(正肥)ら尾張関係者とも盛んに接触し
「五卿」の取り扱いをめぐる(「再征長不可」を求める論議もあっただろう)動きを記している。
(結果、毛利父子の取扱いが決まるまでは、五藩にそのまま、大宰府での警衛を担当させることを通知)
旧知の鳥取藩士や慶喜指揮下にあった水戸藩の本圀寺詰士らと会ったり、幕府が朝廷に送る賄賂として
三十万両を用意しているとの風聞、いわゆる「天狗党一件」と姫路藩での勤王派弾圧の動きの情報も得ている。
また十一日の日記には「今夕吉井税所同行、島原に遊ぶ。馴君、花君、阿北、辰次、阿光、細書し難し」と
島原で遊んだ様子も記されている。
慎太郎は一足先に京都を立ち、二月二十六日には兵庫から初めて薩摩の蒸気船・胡蝶丸 に乗り
「駿速なること大に関心」と感想を残している。この後も蒸気船を利用することにより、この年はなんと
四度の上洛を果たしている!
三月二日には嵐や蒸気釜の不調もあった中で博多上陸、直ちに大宰府の三条に上洛の報告を行っている。
こののち、筑前・長州各地に滞在し、筑紫衛・月形洗蔵(筑前)、多田荘蔵(対馬)、黒田嘉右衛門(薩摩)
泉十郎・熊野九郎(長府)、井上聞多・伊藤俊輔・山縣狂介・広沢真臣と幅広く会っていて「薩長融和」に
向けた薩摩の動きを伝えたと思われる。
四月三十日には潜伏先の但馬から帰国を果たした桂小五郎との対面を果たしている。

土方久元は慎太郎が去った後も京都に留まっていた。土方の日記に記す「討幕之議ヲ唱ル事最烈ナリ」
と評する薩摩の中村半次郎と行動を共にすることも多く、三月十二日には京都に入った西郷隆盛から
五卿が無事に大宰府に落ち着くことが成ったことに安堵し、また筑前藩の佐幕派重役三名の退任を
知っている。
四月二日には高杉晋作と対立し、筑前に逃れていた赤祢武人が大坂で幕吏に捕らえられた由
四月五日には吉井幸輔宅にて西郷、村田新八と面会、浪華より坂本龍馬も来たとある。龍馬は
「神戸海軍操練所」が閉鎖後海軍の人材を欲する薩摩藩(神戸海軍操練所では薩摩出身者が一番
多かった)の保護下にあって、小松帯刀や西郷との交流を深めていた。


「第一次征長」で薩摩は西郷に代表される当初の「長州厳罰論」から内戦回避へと転換し、続いて
「五卿動座」に向けた一連の動きの中で気運が出てきた「抗幕」として雄藩連合する動き(「薩長筑連合」)
は筑前勤王党の月形洗蔵の周辺から出てきたもので「長州再征」の動向に気配りしつつ、長州との連合で
「旧制」に復そうとする幕府に対抗しようとしていたのである。
四月二十五日、小松・西郷らは龍馬を伴って、薩摩へ向かう。
西郷は「連合」に向けた長州への探りをいれるため「同所之事実探索」を依頼し、坂本龍馬は鹿児島を
五月十六日に出発。まず肥後に入り、藩内抗争があって滞在していた福井を去り
このころ故国の熊本に閉居していた横井小楠を訪ねるが、かつて自身の開国論を以て
政事総裁職・松平春嶽のブレーンとして幕政改革にあたるも、京都では長州の「攘夷論」を以った
朝廷工作等もあって挫折した経験もあり「長州は討たれても当然」と考える小楠はこの「連合」に対しては
理解できぬと反対をした。肥後藩のスタンスも「第二次征長」では幕府側について長州と戦ったほどであり
龍馬とは温度差があったのだ。
続いて、龍馬は大宰府の五卿に謁見する。五卿はすでに「動座」の際に尽力した薩摩の厚意も十分
感じており「連合」には前向きであっただろう。当地に居合わせた長州藩・小田村素太郎(楫取素彦)
長府藩・時田少輔に薩摩の意向を伝え、桂小五郎(このころ木戸貫冶と改名)と西郷との会談を画策する。
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by enokama | 2015-03-31 22:39 | 中岡慎太郎関連 | Comments(0)