エノカマの旅の途中

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近代大阪経済界のリーダー・五代友厚

大阪企業家ミュージアムという施設(大阪商工会議所の一部門)が本町にあって
そちらに「五代友厚」の講演を聞きに行ってきました。
このミュージアムの展示を見てたら、近代から現代に至る大阪の企業の原点の多くが
やはり、明治初期に大阪で五代が行った一連の施策につながってくるものになるんですね。
(大阪地盤の住友はなんとか幕末維新の波で潰れなかった例もある。五代の次が長州閥の藤田伝三郎だったり、近江商人の流れを汲む伊藤忠商事・丸紅)展示もなかなかよかったですよ。

まずは何度かこの画像は載せてますが、大阪にある五代友厚像の一つ・商工会議所の像。
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右足を半歩前に、右掌を上に一寸前へ出しているのは
示現流の使い手が、いつでも抜刀できるポーズだそうです。ちゃんと意味があったんだ!
ちなみに五代の像は大阪で四つ(もう一つ、計画中もある)



五代のことについては薩摩藩のカテゴリで、だいぶ書いてるので
今回は新たに知ったことを書いて行きます。

まず亡くなった年齢は満49歳。糖尿病を患っていて東京で亡くなったものの、墓は大阪にある。
名前は幼いころが徳助で、才助は大阪運上所の役人のころまで(当時の書面に才助とある)のち友厚。
薩英戦争では三隻の蒸気船の拿捕とともに捕虜になったが「火薬庫に火をつけて」英国人と共に沈もうとし、松木弘安(寺島宗則)に止められたような話もあったとか。
いわゆる薩摩の武勲派には「キザなハイカラ野郎」(他に例の女癖も)と言われて嫌われていた。
(まあ西郷さんは評価してたそうだし、桐野利秋とは仲良かったとも言うけどね)
欧州の洋行中には薩摩藩主に向けて「十八か条の献策」を送ってるんだけど
日本では船があっても修理できる施設がないので作るべし(のちに小松帯刀と長崎に「そろばんドック」として実現)、商社合力(株式会社のこと。これまでの日本の一連の事業は「家」単位で、資本を集めると言った発想はなかった)、紡績機械の輸入・・・この献策は現物の帳面(?)を見せてもらいました!

この洋行中に翻意となった仏人モンブランに関しては、この薩摩の前には幕府使節団も欧州に来ていた
(モンブランは以前、日本に一時滞在していた)そちらにも接触してビジネスを持ちかけたけど
フラれてしまっていて・・・その後にこの薩摩にも接近したり、再度の来日時には個人で通信業を明治新政府に持ちかけたり(この件は「国策」で行うとして、五代はきっぱり断ったけど)で「山師」と言う評価もされがちなんだけども、最近の研究(フランス等でも)ではそうではないと評価も変わってきているとか。

開港した大阪運上所の担当となった五代は、外国商人の不正や密輸をびしばしと取り締まり
(伊藤博文のいた神戸は、まだ緩かった)外国からも「やりすぎ」として抗議もあった。
そして五代には、中之島にあった各藩蔵屋敷が流通経済の変化で無くなったり、大坂の銀本位制も無くなり没落の危機になっていた「大阪の再生」の役目も担っていた。
そんな中で横浜への異動司令は一般的に「左遷」とも言われることもあるけど
貨幣改革の問題で「五代が必要」と言った声があったのも事実で「栄転」とも取れなくはないとのことでした。

大阪の各種事業は有名でくぐったら出てくるので、ここでは書かないけど
当時の五代の素顔は意外にも「洋食嫌い」で薩摩煮と泡盛が好物。
また「洋服」は着ず(夏冬で一着ずつ、一張羅があるだけ)穴の開いた着物をいつも着て
服装にも無頓着だったとか。おしゃれそうなイメージでモテた・・・ってことでもないようです。

亡くなった後、何人も妾さんや子供も残した五代だけど「借金が100万円」(大金)も残ったと言うことで彼が育てたとも言える実業者がお金カンパして返したそう。
一族に事業を残したわけでもなく、大阪での事業者らの活躍の場を提供するのに徹した(業界横断的な財界団体を作った)とも言えるのだ。
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会場には「五代友厚プロジェクト」の方も来られてました。
もっと彼の功績が知られて行ってほしいものです!
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by enokama | 2015-02-19 21:13 | 大坂発見 | Comments(0)