エノカマの旅の途中

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岩国吉川家の城下町~吉川家の廟所と吉川経幹の幕末

吉川家関連の史料館は二つあって、まずは「徴古館」(→HP
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第二次大戦中に建てられたもので、独特の建築となっている。
「岩国市史」の編纂や地域の歴史研究の拠点であって、問い合わせ等もこちらで答えてくれます。
展示としては岩国の歴史や江戸時代の吉川家の治政について、詳しく知ることができて
ちょうど行った時は「錦帯橋」についての架橋・架け替え・修復についての文書が時代ごとに
展示してありました。入館料は無料!



吉川史料館(→HP。現在「吉川経幹」展をやっている)
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こちらは吉川家の刀剣・甲冑・絵画・文書と、美術・工芸の貴重な遺墨が展示してあります。
昌明館と言う、かつて吉川家藩主らの隠居所等に使われた場所。
「山中鹿之助の兜」ってのもありました! 入館は500円

しろへびの観察館
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保存された武家屋敷
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吉川家(洞泉寺)廟所(→詳しい場所
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白壁の塀の両側に墓碑が林立する光景は圧巻
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十二代岩国領主となったのが吉川経幹である。
幕末期、長州藩は「航海遠略策」→「破約攘夷」と言った政策変更もあったが
安政の黒船来航のころから、萩本藩の藩主・慶親は長年の疎遠の非を悟り
かつてのような協力関係を結びたいと呼びかけ、相州警備・摂海警備と本支藩共に赴いている。
文久三年となって、慶親は「他の末家と同等の扱いとする」と他の支藩よりも「下」に見ていた
岩国(将来は藩への昇格も見込んで)の処遇改善を約している。
八一八政変の前後は慶親の名代として経幹は京都におり、八月の「大和行幸」の決定の際は
鷹司邸に招かれ、朝議を伝えられている。そして八月中には帰国している。
翌元治元年参与会議の瓦解もあって、攘夷の歎願・毛利父子の冤罪を訴え「進発論」として萩本藩では
毛利世子・定広の率兵上洛が決まる(定広が京都へ向かうまでに「禁門の変」で敗北してしまう)
ただ経幹は長府・清末・徳山各支藩とともに参集し、この動きを阻止しようとしていたが(6月21日山口着)
支藩の同意を得ないまま「池田屋事件」の影響もあって、上洛の兵はすでに出発(6月14日)しており
動き出してしまっていたのだ。

そして第一次征長が決まり、萩本藩から周旋を懇願される(→こちら
これを受けて、隣藩で征長総督府の置かれる芸州とは長い誼があり、一連の長州藩からの進達書は
吉川家を通じて芸州藩から公武(朝廷・幕府)へ伝えられることとなった。
一方で戦国時代の豊臣家臣のころから、吉川家と筑前(福岡)藩・黒田家とは江戸時代を通じても
良好な関係となっていた。
この岩国へは「長州救済」を願い、筑前藩士の喜多岡勇平が来て交渉を行い(→こちら
薩摩・尾張と図って「三家老の切腹」と言った条件を呑んで「不戦」となって終わる。

翌慶応元年には「本支藩一致しての武備恭順」の方針が示される。
「第二次征長」の動きでは幕府から再三、敬親父子のちには経幹と召喚の動きがあったが
これを長州は拒否。その間、薩摩の協力もあって兵制改革・軍備の充実も進み
「第一次征長」時の周旋もあり、芸州・薩摩が出兵を拒否したこともあって
翌二年の四境戦争で勝利を収めるのだ。

この戦いでは境界となる小瀬川や芸州領の大竹から大野が主な戦場となった。
長州側は諸隊の遊撃隊と岩国藩兵(農兵も含む)が中心となったが、征長軍先鋒の彦根・高田藩は
旧式兵制でもあり当初は圧倒したが、征長軍でもミニエー銃を大量に持つ西洋軍制となっていた主力の
幕府陸軍歩兵・紀州藩との戦いは、紀州藩の誇る鉄製蒸気船・明光丸(887屯)元々は水戸藩が建造した
旭日丸からの海上からの艦砲射撃も効いて(長州の艦隊は馬関に回されていた)一進一退となっていた。
芸州領内の戦いとなり、兵を動かさない芸州藩にも考慮して、岩国藩では避難民への食糧・建築材を
施し直ちに救援に当たっている。一方の征長軍は宿営代や軍夫への日当も払わず、軍律も確立されておらず
(地元民の書簡が残っている)「民衆の長州びいき」を呼んだ。
総督府が置かれていて「まったく動かない」訳には行かない芸州藩とは一部で交戦もあったが
広沢真臣が交渉し「相互撤兵交渉」を進め、将軍・家茂の死で「止戦」の動きが強まると
宮島で幕府側の勝海舟と広沢・井上聞多の会談が行われ、一連の戦いは終わった。

慶応三年三月。元来が病弱だった経幹は、その体を押して難題の周旋に当たったが力尽きるように
亡くなる。享年三十九歳。ただその喪は長く秘された。。。
このことは毛利敬親がその功に報いるため「生きている間に大名にしてやりたい」と言う思いもあったと言う。
ただ従来のように幕府に願うことも不可能となっていて、慶応四年(明治元年)三月十三日になってようやく
「大名昇格」の件は朝廷から吉川家を毛利家の末家とする沙汰が出、閏四月には経幹を駿河守に任じ
従五位下とし諸侯に列した。十二月二十八日に「吉川藩」から隠居の願いが出、翌年三月二十日に
ようやく喪が発せられた。
墓所はこの洞泉寺墓所の「山のお搭」にあります(一番奥でこの時は時間がなくって行けなかった・・・)
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by enokama | 2015-02-13 19:37 | 歴史連載 | Comments(0)