エノカマの旅の途中

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岩国吉川家の城下町~成立と本藩からの冷遇

少し前ですが岩国へ行った時のレポをしたいと思います!
表題は「岩国藩」とはあえてしません。
藩が正式に成立したのは、もう明治と改元する直前の慶応4年となってからの話で
江戸時代の大半を吉川家は「岩国領主」として、萩本藩・毛利宗家から「大名として認めず」
陪臣の扱いとされ、正式な藩ではなかった。
これは関ヶ原の戦いからの流れで、吉川家が「防長二州」を毛利家の所領として死守すべく
運動した結果でもあったが、関ヶ原の不戦と言う吉川広家の行動に対して、一方の毛利の将・秀元は
元来主戦論を唱えていて、批判的な者が多かったからだと言う。
毛利秀元は支藩・長府藩の初代藩主であるとともに、まだ歳が若かった萩本藩初代藩主・秀就の後見となり
本藩にも影響力を持ったが、秀就の成長ともに不仲となり「長府藩の独立」も画策し(実現せず)
萩本藩と長府藩・岩国藩の不仲と共に、長府藩と岩国領の不仲という流れが幕末まで続いていたのである。
(→関連記事

一方で幕府・徳川家は事実上、吉川家を「大名」(藩主)と同様な扱いとし
定期的な参勤交代こそないものの、将軍家の代替わりや吉川家の継承等、一連の儀礼と言った際には参勤し
江戸には屋敷を構え、大坂には蔵屋敷を持ち、内実は一諸侯と変わらない体裁となっていた。

江戸時代の中ごろにはさらに、岩国は他の三支藩よりも冷遇されるようになるが、幕末になって尊攘運動に伴う
相次ぐ国難に関して、支藩との結束を望む萩藩主・毛利慶親は岩国領主・吉川経幹に「大名取り立て」を
以て、融和に努めている。
だが毛利本支藩間の不仲については、そこに幕府も付け込む動きもあって
慶応元年になっての「本支藩の一致」が実現しなければ、長州藩はそれこそ潰れていた可能性もあったのである。



岩国へはいろいろと調べたけど、結局は広島から在来線で50分かけて行くしかなかったのです。
新岩国は使えないし、もっと広島ー岩国って快速があったような気がしたんだけど
普通ばっかりになって、明らかに本数自体が減っているような・・・

岩国駅は昔ながらの重厚なたたずまい
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錦帯橋方面へはバスが結構あって
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15分ほど走って、錦帯橋の手前のバスセンターに到着。
橋の手前は昔の中下級の武家屋敷や商家だった地域(錦見)
錦帯橋を渡ると陣屋や上級武士の居住地域で、その両地域を結ぶために架けられたのが錦帯橋だった。
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by enokama | 2015-02-10 21:14 | 歴史連載 | Comments(0)