文久3年・関門海峡で起きた長崎丸事件 その2
阿久根で応対したのは、海江田武次(信義)と本田彌右衛門(親雄)で
桂は「外国船と誤認して貴藩の船舶を砲撃してしまった。斬鬼の至りに堪へず、藩主父子も厚く謝意を
示している」と伝えるが、海江田らは「軽微な事件ではなく、我らが専決することはできない」として
鹿児島に復命し、藩主・忠義らに伝えた。
激高し「砲撃者の首級を出せ」と言う者もいたが、すでに公武(朝廷及び幕府)へ報告済みのことで
上京中の久光とも熟議の上で判断するとのことで、桂らは帰藩した。
京都では一橋(徳川)慶喜に申告し、薩摩藩は長州に奈良原喜左衛門・高崎左太郎(正風)を糾問史として
向かわせようとしたが、幕府より「公武において長州の処置を議して裁決するので、薩摩よりの直接談判は
猶予してほしい」とし、派遣は中止された。
この事件の被害について、薩藩海軍史にはこう記す。
此長崎丸遭難の為め、薩藩の物質的損害は兎に角、薩藩航海者の先達は此一難に殆どと尽きたりと
云うも過言にあらず、斯の如く多数有為の士を失うたる損耗は亦大なりと謂う可し。
士官は九名が死亡。特に宇宿彦右衛門は通信(→こちら)や日本で初めて(島津斉彬)の写真を撮った
スタッフの一人として有名で、蒸気機関、ガラス、反射炉建設と集成館事業でも中心的な人物であり
この文章にあるように、他にも有能な人物が多く亡くなった。
元治元年。神戸海軍操練所の閉鎖に伴い、坂本龍馬ら浪士のグループを薩摩が引き取ったのは
この長崎丸事件で海軍の人材を失ったことも一因で、また「航海術習得指導者の多くが死亡」として
幕臣となっていた中浜万次郎を薩摩へ「三か年借用」を願い、この年にできた洋学校「開成所」にて
英語教授・航海術を中心とした教授となり、さらなる蒸気船の購入にも関わっている。
この事件は慶喜や久光の対応で、直ちに「薩長の全面対立」とはならなかったが
結果的に「禁門の変」で慶喜や薩摩は長州勢と戦争となり勝利し、長州勢は退潮となるが
遥か上を行く「薩摩外交」は、その長州を潰し切らずに逆に「西国雄藩連合」となって、幕府と対峙し
幕府は倒れ、新政府の中枢となって行く。
一方、長崎丸事件ののち長州における「攘夷と言う狂気」はまだ続いていた。
二月に堺を出航し、周防別府浦(現在の田布施町)に停泊していた薩摩御用商人の船を沈め
船主の大谷仲之進が殺害された。
罪状は綿花、菜油を運び、外国と交易していたためと言う。
その後は異様な展開となる。犯人とされた山本誠一郎と水井精一は持ち出した大谷の首の前で
大坂の南御堂にて切腹して果てるのである。
一坂太郎氏の著書によれば、久坂玄瑞らが「犯人でもない山本らに詰腹を切らせ、薩摩の密貿易を
暴いたとして長州の人気を高めるため」とされる。
長州の維新はこういった陰惨な出来事の上で、成っていった面も多いのではないだろうか。
維新後に栄達した者たちが多いので、明らかにならないことも多いだろうが
陰で犠牲になった人々を思うと、なんともやりきれない思いもある。
大正十年八月。薩摩出身及び同地方の有志が集まり、薩摩の工業及び航海術の先達である
宇宿彦右衛門、久保六郎、梅田市蔵が有為の才を抱き、空しく怨みを呑んで斃れた地に
島津家の賛助を仰ぎかつ有志の協力を以て、田野浦高丘上高輝山寺内の招魂碑が建てられた。
大蔵院
この本堂には長崎丸の船板の一枚が残されている。
碑文は松方正義による
関門海峡に臨む高台にある
長崎丸炎上の際、近海にいた大麻丸と言う船が救助活動を行い、多数を救助した。
真楽寺
こちらにも1763年に田野浦沖で起きた肥前(佐賀)船遭難者の碑がある。
当時の佐賀藩主によって建てられ、犠牲者は32名で他に長門人が21名亡くなった大惨事であった。
当初、長崎丸遭難者もこちらに葬られていたが、招魂碑の建った大正のころには荒廃していたと言う。
それを憂いた有志らによって、高輝山内に改葬されて、碑が建てられたものである。