吉田松陰の水戸遊学と会沢正志斎
ボチボチと行きますが、今年の大河ドラマもあるので「吉田松陰」の水戸での足跡について先に紹介しておきます。。。
一言に「尊王攘夷」と言っても「水戸学」が源流なので、その思想を知るには重要なことだと思うので。
嘉永4年(1851)先に江戸湾周辺の台場等を視察し、海防の現状を見聞した吉田松陰と宮部鼎蔵は次に東北に目を向けて「東北遊歴」(→関連記事)を計画する。
藩には以下のように願書を出していた。
「水戸・仙台・米沢・会津等文武盛んの由承り及び候。なにとぞ自力を以て彼の辺遊歴仕り、軍学巧者の仁相尋ね、かつ国風をも一覧致し候わば、流儀修練の一助と相成り申すべくやと存じ候」
南部藩の江幡五郎も同行し、その帰郷の際に仇討ちを果たしたいと言うことで、12月15日に泉岳寺に集合し出発することとなった。
ただ、その日に藩からの「過所手形」が届かないことを松陰は知りながらもその約束を優先し出発し、のちに「脱藩」として処分を受けたのはよく知られた話だ。
水戸市の中心市街地は水戸駅(水戸城)から西北方向へ上り坂(50号線)に沿って、大工町あたりまで連なっている。その銀杏坂を上った南町あたり
その一行が、まず向かったのが水戸で12月19日~翌5年1月20日にかけ、水戸藩士・永井政介宅に約1カ月余り滞在した(オレンジ印)
永井家に残された、この文面は直筆(実物は弘道館で展示してます)
東湖も「烈公」徳川斉昭のブレーンとして、水戸の藩政改革を行い(藩校・弘道館の創設等)のちに西郷隆盛・真木和泉と言った各地の志士たちにも大きな影響を及ぼした。
ただ急激な改革は幕府の猜疑を呼ぶこととなり、一旦は江戸で斉昭が隠居、東湖は蟄居を命じらていた。
その蟄居中に東湖は多くの著作を残し、弘化3年(1847)水戸に帰国するが、その謹慎が解かれたのは(会おうと思えば会えたそうだが東湖が遠慮した)松陰の去った一か月後であり、会うことができなかった。
会沢正志斎 屋敷跡(赤印)
東湖には会えなかったものの、正志斎に会って(正志斎70歳・松陰22歳)その日記には
「会沢を訪ふ。会沢を訪ふこと数次なるに率(おおむ)ね酒を設く。水府の風、他邦の人に接するに歓待甚だ渥く、歓然として欣び交へ、心胸を吐露して隠匿する所なし。会々談論の聴くべきものあらば、必ず筆を把りて之を記す。是れ其の天下の事に通じ、天下の力を得る所以か」と記している。
松陰は感銘を受けたようで「身、皇国に生まれて皇国の皇国たる所以を知らずんば、何を以て天地に立たん」
と日本学の根本を教示され、その心眼が開かれたと言う。
それまでは国と言えば「自藩」という認識で、松陰自身も「防長二州の防衛」と言うことを主眼としてきたが正志斎は「天皇を中心とした日本」とした大局観を示したのだ。
ペリー来航の前年の話である。
正志斎が「新論」を書いたころの寓居跡(青印)