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エノカマの旅の途中

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庄内藩薩摩藩邸焼き討ち事件のゆかりの場所

庄内藩の薩摩藩邸焼き討ち事件→その1その2
庄内藩江戸屋敷→こちら
薩摩藩・慶応3年の関連記事→その1その2その3

今まで何度か書いてきましたが、この事件のゆかりの地に行ってきたので紹介します!
(主な引用文献は「薩藩海軍史」と「徳川慶喜公伝」)




慶応3年秋。京都で事変が起こった際に江戸でも蜂起、東西で呼応し幕府を混乱させるべく
薩摩藩邸に伊牟田尚平、益満休之助、相楽総三を首領として500名もの浪人が集められたと言う。
(「天璋院護衛の為」との名目もあった)
ただこの輩には無頼の徒も多く、豪商に押し入り、庶民に暴行を加えるなど
江戸市民、幕府の憤怒を大いに受けることとなる。

江戸の治安は、庄内藩出身・清河八郎の浪士組が発祥である庄内藩指揮下の「新徴組」によって
取り締まられていたが、この治安の悪化に対して、10月には幕府歩兵隊、11月以降には諸藩士を増員
警衛を図っていた。

(飯田橋歴史のプロムナード→HP)
新徴組屯所跡
庄内藩薩摩藩邸焼き討ち事件のゆかりの場所 _f0010195_111024.jpg

釜さん関連。牧場もあったんだな・・・
庄内藩薩摩藩邸焼き討ち事件のゆかりの場所 _f0010195_1241.jpg

庄内藩薩摩藩邸焼き討ち事件のゆかりの場所 _f0010195_124195.jpg

あとは赤十字発祥地(佐野常民)だったり、日大発祥地(山田顕義)だったり・・・何気に凄い場所。


このころ幕府の主戦論者であった勘定奉行・小栗忠順は
「薩藩は奸賊なり、速に討たざるべからず、大坂の因循して時機を逸するは、在坂の有司孰れも臆病者
なるが故ナリ、関東より端を開きて其眼をさまさしむるに若かず」と主張するも
「大坂の事情は推測までにて、其詳なることは知り難く、上様の御深意も判然せざれば、速に使を遣りて
台命を仰ぎたる後に事を決せんも遅からず、浪人の暴行の如きは、兵端を開くに比すれば其害寧ろ小なり」
と老中らは慎重論を述べ「大坂の思召を伺うべし」とした。
ただ慶喜らが「王政復古政変」の後で、移っていた大坂でも主戦論と慎重論があって、明らかな方針を
打ち出せないでいた。
しかし、一方的な大久保や岩倉が求める慶喜の「辞官納地」には、諸藩や外国からの批判もあり
尾越の周旋や岩倉の態度軟化で「慶喜議定就任」として新政府への参加も見えてきていた。
この動きは東国の幕閣には知る由もなかったのかもしれない。

そんな中で12月23日、江戸城西の丸が炎上。天璋院の住居でもあり、大奥の女中が薩藩士と通じて
放火が行われたとも言われた(伊牟田尚平本人が単独で忍び込み放火したとも言う)
その夜には薩摩藩邸近く、三田にあった庄内巡羅兵屯所の一つに銃弾が撃ち込まれる。
ここでさすがに庄内藩は我慢ならずに「斯くても尚膺懲せずとあれば、自今巡羅の任は御免願ふべし」と迫り
「薩摩藩邸焼き討ち」を幕府に訴える。
24日夜。幕府陸軍・前橋藩・西尾藩・上山藩、そして庄内藩・支藩の松山藩・新徴組が出動する。
24日は薩摩屋敷の浪人共が蒸気船に乗り込み立ち退きの支度をする様子である(史談速記録・阿部潜)
として今夜中に取り押さえたいから許可を得たいとした庄内側の要請もあったと言う。
焼き討ちの方針は決まっていたが、決行日は決まってなかったようで、当夜の当直で取り合った幕府目付の
阿部(小栗に同調する主戦派だったもよう)は、これも当夜の当直であった上司の若年寄に迫り「翌日の老中の登城を待つ」との態度に「ご独断で結構」としてそれを容れさせた(その若年寄は翌朝喉を突いて死んだと言う)

薩摩藩三田屋敷の留守居・篠崎彦十郎は(かつて太宰府の五卿を警衛した経歴もある)庄内藩士からの
詰問に対し浪士の引き渡しを拒み、附役の関太郎と共に斃され、支藩佐土原藩小山屋敷と共に火に包まれ殺傷生捕者は百余人とも言うが、品川に廻航していた薩摩の蒸気船・翔鳳丸にて上方へ逃れたものもいた。
逃れた者には落合直亮、伊牟田尚平、伊東祐亨と言った人物がいる。
翔鳳丸は品川沖に停泊していた幕府艦船・回天の猛追撃を受けるが幸運にも逃げ切り
年が明けた2日に兵庫へたどり着いている(のち阿波沖海戦で沈没)
留守居附役の柴山良助は幕府に捕まり拘留されていたが、年が明けて鳥羽伏見の開戦を聞き
到底一命の免るべからざるとして、ピストル自殺をしている。
薩摩屋敷への砲撃の中、藩蘭医であった黒田松栄は砲弾を受け、松田正雄と言う人物が介錯し
50人ほどいた降伏人の中に気丈な婦人がいて、感心したと言った話も伝わっている。


まあ、これまで何回も書いてきたんですけど「西郷の策に嵌った」とかは言ってほしくないんですよね。
(慶応3年12月の段階で、江戸のことを気にする余裕もあったのかと)
「本当にすまない」って思ったら、下記の大円寺にも西郷さんが揮毫した慰霊碑ぐらいは建っていると思うし
(実際にあるかとも思ってた)
庄内藩の判断も至極当然なことだし「毅然とした武士道に法った態度」を取り続けたことによって
のちの薩摩との誼にもつながるかと・・・
まあ、こんなこと書いたら「それは違うだろ」って思う人もいるだろうけど
今の時点での僕の知っていることからの思いなので、ご容赦くださいね。。。


永福町・大円寺(井の頭線永福町から東へ歩いて10分ちょっと) 薩摩の江戸の菩提寺
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庄内藩薩摩藩邸焼き討ち事件のゆかりの場所 _f0010195_1143556.jpg

入って右をしばらく行った場所
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同じような薩摩型集合墓(?)は他でも見たような。

篠崎彦十郎の名前。この事件の犠牲者の墓所でもある。
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佐土原藩士は個別の墓がいくつかあった
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横山安武墓所(桐野先生が詳しく書いておられます→こちら
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寺を「少し回りましたが「薩摩藩」「鹿児島藩」と記した個人の墓も多かったです。
八田知紀の墓所もあるようだけど、わかりませんでした。
後、保科家の立派な墓所もあったけど、ちょっと詳しくないのでわかりません・・・
by enokama | 2014-12-03 20:35 | 庄内藩 | Comments(0)