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西宮の幕末史跡めぐり~西宮砲台と今津砲台

安政元年(1845)9月。ロシアのプチャーチンが軍艦ディアナ号で摂海(大阪湾)に突如侵入
天保山沖に停泊し、日本に通商を求めると言う出来事が起こった(関連記事→その1その2
京都にも近い地でのこの事件には幕府も危機感を持って「摂海防禦計画」を進める(→こちら



各所に砲台も多数作られて、譜代藩である尼崎藩は5か所の砲台を自領に築いたが
他は幕府が各所に整備して、各担当地区ごとに諸藩士が詰めて海防警備にあたった。
主な地域は、天保山付近の担当だった鳥取藩は実際にイギリス船を砲撃したと伝わり(文久3年6月)
大坂南部から堺以北を担当した土佐藩は「住吉陣屋」を構えて対応した。
摂海の入口に当たる紀淡海峡・明石海峡は、領地を接した阿波藩(淡路島)・明石藩・紀州藩が建造した
多数の砲台に砲門を構えて担当した(代表的な砲台→松帆砲台舞子砲台 関連記事はこちら

あと淀川を上り、京都への侵入を防ぐと言う目的で京都への入口にあたる(樟葉(枚方市こちら)高浜(高槻市)の両台場(砲台)の設置も行われた(実際は違う目的もあったようだ→こちら

赤印が西宮砲台(外壁が現存)・青印が今津砲台(現存しない)

西宮砲台は香櫨園浜に現存する幕末期の建物で、文久3年(1863)の一連の摂海防禦計画で
西宮から明石以東の間に、東から今津・西宮・湊川崎・和田岬の四つの砲台が計画された一つで
勝海舟が中心となって整備されたと言う(明石藩の砲台建設にも幕府の技術援助があった)

住宅街から海側へ行くと防潮堤越しに迫力ある建物が
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砲台跡の石碑は防潮堤より、陸地側に取り残されているように建っている
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防潮堤を階段で超えて
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高さは12m、内径が17m。穴の開いた砲眼が11個と窓が1個あり、大砲が二門据えつけてあった。
砂地に建てられたため、基礎を固める松クイが1000本以上打ちこまれる難工事となり
その上に瀬戸内海の島から運ばれた花崗岩で「石堡搭」が建てられ、外周に土堤で「外郭」(一部残存)が
ぐるりと搭を取り囲んで守るような形となっていた。
建造には4年半かかり、完成は慶応2年(1866)後半となり、試射も行われたが煙が搭内部に充満する
ばかりで実際に使用されることはなかったと言う。
すでに海外との条約も結ばれ、開港された港で各藩が思い思いに海外貿易を行う時代ともなり
翌慶応3年12月の神戸開港も控えて、その建築期間の長さゆえに海防をめぐる情勢も変わってしまって
いたとも言えるだろう。

実は普段は内部は見られないんですが、この日は地元のイベントが行われていて
(例年、9月の最終日曜にあるそうです)
内部の見学が可能だったと言う幸運に恵まれました!!
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内部はかつて木造二階建てだったそうだが、明治17年に火災のため焼失し
石槨も老朽化のため、鉄骨で補強が施されている。
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こちらはかつての砲身冷却用の井戸の跡
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ちなみに同構造で現存している和田岬砲台(こちらは1年半の工期で完成した)は内部構造物も
残されているので、同様なものだっただろうとのこと(こちら→和田岬砲台のHP


今津砲台跡にも行きました(遠かった・・・)
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こちらは明治期に解体されてしまい、その時の石材で碑が立てられている。
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説明板によると大きさは西宮砲台と同等だったようだ。
対岸には今津燈台が(近く見えるけど、対岸にはかなり大回りしないと行けない)

今回はいい史跡めぐりができました。
ありがとうございました!
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by enokama | 2014-10-16 23:50 | 歴史連載 | Comments(0)