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西宮の幕末史跡めぐり~慶応3年11月・長州兵の打出浜上陸と西宮宿営の地

先日、いつもお世話になっている長谷さんのガイドで西宮の史跡巡りをしてきました!
あまり歩いたことのない地域だったので、新しい発見がいくつもありました。

まずは阪神本線の打出駅からスタートです(もちろん来たのは初めて・・・)
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薩長芸出兵条約に基づく長州兵の動きは1200名の兵が6艦に分乗して三田尻を出発し
御手洗港に寄って、芸州藩・万年丸が合流した上で嚮導する形で摂海(大坂湾)へと入った。
当初は西宮に直接上陸の予定だったが、幕兵200名が駐在しているとの情報があって西寄りの
打出浜に変更して11月29日に上陸を果たした。
この現在の「阪神」(兵庫)と言われる地域には、安政~文久期(プチャーチン大坂湾来航以降)
外国船侵入に備えた大阪湾警衛が各藩にも命じられたが、長州藩(萩藩を始め、各支藩も担当)が
尼崎以西から須磨までの幅広い地域を担当していて、よく知り得た場所でもあった。
この時の打出は伊予大洲藩の警衛地であったが、元来「勤王藩」であった藩論は討幕派に与することで
決しており、すでに長州側との協力ができていて、輜重の運搬、兵糧の提供、通信手段に至るまで
幕府を憚らざる(徳川慶喜公伝)とも言うべき動きを見せ
藩主・加藤泰秋自身が京都より入り、自ら長州藩の上陸に関しての周旋にあたった。

親王寺(住所としては芦屋市になる)
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平城天皇の第一王子である阿保親王の邸跡に建てられた寺で、毛利氏はこの阿保親王の子孫であり
参勤交代で通る際に参詣を行ってきた。
打出に上陸後に、まずこの寺を本陣とし、兵が他寺院に分屯した後も振武隊がここに留まった。
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建物は古い物が残っていたそうだが、阪神淡路大震災で多くが被害を受けて
新しい建物となっていて、かつての屋根瓦(毛利紋)が保存されている。

長州兵が甲山の麓である上ヶ原・上大市に一旦は進出し、陣を展開したがその地勢の不利を悟り
こちらも大洲藩が動き、天領であったこの地の役所・西宮勤番所に掛け合って、西宮下町(阪神西宮駅周辺)の
寺院に程なく転陣、京都の情勢を待って滞在した(まだ「王政復古政変」前のこの時点では長州は
「朝敵」であったため)

本陣宿営地となった六湛寺跡(現在の西宮市役所敷地内・六湛寺町として地名が残る)
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真向いにある奇兵隊宿営地となった海清寺
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他に数ヶ寺に分かれて、長州兵は宿営した。
正念寺(整武隊)・信行寺(第二奇兵隊)にも案内いただきました。。。
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by enokama | 2014-10-11 20:49 | 歴史連載 | Comments(0)