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小倉藩の幕末と苦悩~文久3年・朝陽丸事件 その2

糾問書の提出とそれに対する長州藩側からの返書(従来からの主張で小倉藩との齟齬や朝廷との
やりとりに関する返答となっていた)が来たが、中根は朝陽丸が返ってこないと復命はできないと判断し
引き続き小郡に留まっており、長州藩側でも世子・定広を馬関に派遣するなど、藩庁の命に従わない
激派の説得に当たっていた。




ただ、ここでも奇兵隊士らの激派は執拗だった。
とうとう8月13日、小郡の旅宿(三原屋)に乗り込み、小目付の鈴木八五郎と中根の従者らを斬ってしまったのだ。
鈴木の首は路上に晒され、罪状を書いた札が立っていたと言う。
中根は厠にいたことで危ういところで難を逃れたが、三原屋の主人が事前に暗殺者に呼び出され
一行の所在を教えた後、帰宅する後をつけ、犯行に及んだことであり
この事態に朝陽丸奪還をあきらめ、ただちに江戸に戻ることとし
長州藩側の手配で小郡の丸尾崎から船に乗り込んで、帰途についた。
しかし、その中根をさらに付け狙う執拗な一団がいた。8月21日になって三田尻中ノ関沖を行く同船が襲われ
とうとう中根も斬られてしまったのだ。
遺体は海中に投じられ、長らく墓碑もなく忘れ去られていたが
有志によって50年祭が行われることとなり、毛利家が費用を出した上で墓碑が建てられることとなった。
この時の調査で中根の享年は27歳と判明し、剣術に秀でた青年であったと言う。
(碑文)
中根市之丞幕府旗下之士文久葵亥七月携閣老奉書来館小郡蓋詰吾藩攘夷之挙也壮士聞之大憤夜襲
其館殺従者敷人市之丞幸免公儀船丸尾崎護送其東帰壮士追尾至平根沖遂殺之船中實八月二十二日也

今も中根の墓碑は三田尻中ノ関港の外れにひっそりとある。

関係者はことごとく殺し、幕府軍艦も奪ってしまうと言う、あまりにも悪質で非道な行為は糾弾され
戦争に至っても仕方のないような状況でもあったと言える(実際に長洲への憎悪と恐怖心が起こった)
ここで事態は急変する・・・
京都で八一八政変が起き、朝廷の過激尊攘派公卿とそれを手繰る長州藩士らの激派が追放されてしまうのだ。


一方の小倉藩では長州藩への幕府糾問使が来るころから、その糾問の文書にあるように福岡・中津・佐賀・
久留米・肥後・唐津・芸州と言った周辺諸藩に使者を送り「長州包囲網」として関係強化を図っていた。
また大里に長洲が砲台建設を強行した久留米藩船屋敷奉行からは、長州側と歩調を合わせる前提になるが
「田野浦・大里の砲台に小倉藩が一定の人数を出し、京都に赴きそのことを報告すれば、長州の
小倉藩駐留兵らは引き揚げ、この問題も解決するだろう」との意見も出ていた。
また小倉では長州藩が長崎での攘夷実行を行うために3000人の出兵をすると言う噂もあり
田野浦での調練も地雷の実験も行われるなど、その行動はさらにエスカレートしそうな勢いもあった。

そんな中で八一八の政変が伝わり、30日になって長州藩側からは田野浦警備の交代を申し出されて
9月4日には兵の引き揚げが実現した。
大里の久留米藩船屋敷でも本藩の意向もあって、すべての人員が引き揚げ、大砲だけが残されたと言う。
(のちに幕府の命があり、小倉藩が接収して台場とした)
長州兵の不法占拠で、不便を強いられた門司・楠原・田野浦の住民には米が下賜され
警備に当たった兵や台場整備に協力した庄屋らへも褒賞が送られた。

正親町勅使はこのころ黒崎に入ったものの、福岡藩は公式な派遣の報がないとして勅使としては認めず
長崎奉行と同格の待遇とするとし、勅使一行は長州に引き返して行った。

馬関で抑留された朝陽丸であるが、激派の説得と中根らの行方を巡った朝陽丸乗組員への対応と
吉田稔麿が難しい役割を務めている。
9月4日になって、朝陽丸は江戸に向け、出航した。
稔麿はこの事件の対応として、のちに江戸まで赴いている。


小倉藩に関しては「朝廷と幕府の齟齬」に巻き込まれたとも言え
その行動が間違っていたとは思えないが、また数年後には長州藩の行動によって
城と城下町が焼かれるまでとなり、散々な目となっています。
表に出ることの多い長州の歴史もあるが、あまりその裏で知られていなくとも重要な意味を持つ
小倉藩の幕末については引き続き、調べて行きたいと思っています!

(主な引用文献)
「攘夷の幕末史」 町田明広
「幕末長州藩の攘夷戦争」 古川薫
「維新史料編纂會講演速記録 二」
「北九州市史」 「下関市史」 「奇兵隊日記」


最後に朝陽丸のその後について。。。
榎本武揚ら旧幕軍を中心とした「箱館戦争」で朝陽は新政府側の軍艦として蝦夷地で交戦した。
幕府海軍の充実・増艦に伴い、朝陽はすでに主力艦から外れていて、榎本らは新政府への江戸城明け渡し後
一部の艦船を新政府に渡していた(主力艦は手放さずに形だけ旧式の艦船を渡した)
明治2年5月11日。旧幕軍・蟠龍(松岡盤吉艦長)の砲撃が朝陽の火薬庫に当たり炎上、箱館湾に沈んだ。
艦長の中牟田倉之助は瀕死の重傷を負い、多くの乗組員の死傷者が出た。
かつての僚艦同士の戦闘であり、中牟田も松岡も長崎海軍伝習所の出身者であった。
現在、その犠牲者を弔った石碑が立てられている→こちら

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by enokama | 2014-09-22 21:46 | 歴史連載 | Comments(0)