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小倉藩の幕末と苦悩~文久3年・朝陽丸事件 その1 

朝陽丸は7月23日、豊前沖を経由して関門海峡に入った。
異国型蒸気船を見た砲台から、またもや威嚇砲撃を受けた。
長州側はもちろんだが、小倉領の田野浦及び門司の小倉藩台場からも砲撃を受けた。
小倉藩の「攘夷実行令」もあって、海峡の両側からの挟撃がこの時点で実行されていたのであった。
幕府軍艦だとわかると砲撃は止んだが、この予想だにしなかった事態に門司・白野江青浜沖に停泊した
朝陽丸からは小船を下ろし、河野・大八木の二人が上陸し、白野江村の庄屋を訪ねたことで
事情を知ることができた。
ただ、この二士の行動は多数いた小倉領駐留の長州藩兵の目に留まり(島村志津摩が帰国したとも思われた)
庄屋を捕らえ、脅しつけた上で小倉藩士の河野・大八木が乗船していることがわかってしまったのだ。
これが第一の悲劇につながることとなる。



24日。朝陽丸には滝弥太郎・吉田稔麿が兵を率いて乗船してきた。
真っ先に小倉藩士の乗船の有無を尋ねるが、幕吏は二人を船底の火薬庫に隠し守り
来航の目的は「将軍の親書」を渡すためだと、ウソ(本当は老中の糾問書)をついてその場を凌いだ。
(文書の内容は田野浦を不法占拠した長州藩士らの追い払いに関し、福岡・中津・芸州各藩が出動することと
万一戦争状態になった時は小倉藩側に付くことが主な内容だった。この内容だと小倉藩が動いて出させた
文面とわかり、小倉藩論を圧力をかけて転換させた現状では問答無用で撥ねつける可能性もあった)
続いて小人目付の仲川鉄助と鈴木八五郎を亀山番所に向かわせた。
対応したのは広沢真臣(当時は波多野金吾)・宮城彦助・入江九一・赤祢武人であり
それまでの殺気立った奇兵隊士らの態度とは違って、長州側からは知らずに発砲したとの謝意も示された。
そして広沢は「将軍の書簡」と言うことで、山口の藩庁での「藩主が直接受け取る」と言う方針に添って
使番・中根ら一行は渡海船で、従者は阿弥陀寺船。もしくは朝陽丸が直接来てもよいとのことで
小郡の本陣を幕史らの旅館に充てることとし、丁重に受け入れる態勢を整えていった。

ただ、そのころ馬関では執拗な奇兵隊士らの要請があり、再度の幕府糾問使一行への詰問が行われていた。
この際「将軍からの親書」と言うものがウソで「老中からの糾問書」だと言うことがばれてしまう。
そして艦内を再度捜索する動きがあった。
このことを知った小倉藩の二士は累が及ぶことをおそれて、切腹して果ててしまったのだ。
悲劇であるが、この朝陽丸(事件)では二人の血だけではすまなかったのだ。。。

一方、長州の壮士らはさらに朝陽丸自体をも強引に奪い取ろうと強請に及んだ。
攘夷を実行しない幕府には軍艦は不要と言う理屈で、先だっての攘夷戦で虎の子の蒸気船2隻を失っていた。
糾問使一行も討ち取ってしまえと言う強硬論もあったが、藩として朝陽丸を借用する方針と言うことで
広沢が鎮静化させた。
中根は船のことは軍艦奉行の管轄であるとし、決して渡すことはできず「老中の糾問書」を渡した上で
ただちに出航させるべきとしたが
朝陽丸は結局拿捕された形となって「長用丸」と改められ、壮士らに奪われてしまった。
一方で中根市之丞は小郡へと意を決して「糾問書」を渡しに行くことにし、長州の手配した船で向かい
29日に小郡に到着した。
前述の通り「将軍の親書」と言うことで、藩主・敬親が受け取る(実際は名代として世子・定広)手筈であったが
「老中の書簡」とわかったので、郡奉行・刺賀佐兵衛が受け取ることとした。
8月には攘夷方針を一定にするように求めた返書も出し、糾問使一行も慰問して、藩サイドは引き続き
丁重に扱っている。

そのころ、定広は馬関に向かう。この朝陽丸の強請を巡る等の奇兵隊ら激派の動きには、さすがに
幕府とのさらなる対立を恐れて、藩では船の返却の方針を打ち出し、世子自らの出馬となったのだ。
ただこのころ教法寺事件もあって、即時の解決には至らなかった・・・

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by enokama | 2014-09-14 23:54 | 長府藩・小倉藩 | Comments(0)