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小倉藩の幕末と苦悩~文久3年・朝廷勅使の下向と小倉藩への圧力

実は「攘夷期限」を受けた外国船への砲撃は、この長州藩の関門海峡以外にも数件あった。
摂海(大坂湾)防禦を担当した鳥取藩は6月14日、イギリス船が石炭を求めて天保山沖に入ってきたところ
実弾を発射したが、着弾はせずにイギリス船は立ち去った(ただ、幕府船を誤認して撃ってしまったとの
別の説もある)
この行動に大坂城代からは軽挙を諌められたものの、一方で朝廷からは褒賞を受けている。
ここにも幕府と朝廷の姿勢の違いが覗える。
鳥取藩藩主の池田慶徳は公武合体派であったが、一方で水戸の徳川斉昭の子でもあって
「攘夷実行」には妥協を許さない姿勢であって、朝廷からの褒賞には喜んだものの
実状は成果が上がらなかったこともあって、現場にいた藩士らには厳しい処分を課している。



こういった中で中々「攘夷実行」に動かない諸藩に対して、在京長州藩士の攘夷派は三条実美を動かし
6月18日に「無二念打払令」を朝廷から改めて公布し、実際の行動へと徹底させるため
攘夷実行を命ずる勅使を各地に派遣した。

また小倉藩に対しては「減封せよ」との声も上がる中、正親町勅使の西国下向が決まる。
小倉藩の糾問が主目的と見られる中、長崎警衛を長年務める佐賀・福岡両藩にも攘夷実行を迫ると言う
ある意味「無謀すぎる」攘夷論が最も暴走してころだとも言える。
7月になって、正親町勅使は山口に入り、14日に河上彦斉ら長州藩の意向を受けた使者が小倉に着く。
すでに奇兵隊士や久留米水天宮社人たちが、小倉領内で傍若無人な振る舞いをする中で
中央での幕府の姿勢も朝廷の攘夷論に押されていて、明確な姿勢も示せない情勢で
7月16日、とうとう小倉藩は勅命を受け入れ「攘夷実行」の触が藩内に出された。
15日には田野浦の御茶屋(藩主別邸)が占拠され、正親町勅使と長州藩世子・定広が滞在し
田野浦の砲台を視察、18日には大里・久留米藩船屋敷の砲台の視察を行った。
引き続き、筑前視察として西行が決まり、福岡藩では受け入れの準備が進み、小倉藩でも長崎街道
道中の手筈を整えていた。

ただ、長州の激派らはさらなる小倉藩の征伐を求めていた。
外国船との攻防が一息ついていたころで、その奇兵隊士らの戦意の向けどころとして求めた建白だったの
かもしれない。
この件に関して一旦、京都での朝裁を受けるとして、正親町勅使は従士を京都に向かわせ
その判断を待って、自身はしばらく長州に留まることとした。
朝廷の裁断は長州の言い分を完全に飲む形で「小倉藩処分」が実際に行われようとしていたのだ。

一方で江戸に立った小倉藩士の河野と大八木だが、幕府に攘夷実行に関する伺書を提出し
小倉領田野浦の長州藩による不法占拠が報告された。
これを受けて、幕府からは使番・中根市之丞ら糾問使の派遣が決まり、幕府軍艦・朝陽丸に乗り込み
小倉の二士も同行した。
この航行中にアクシデントが起きた。7月20日、明石海峡を行く朝陽丸に向けて、当時は阿波藩領であった
淡路島方面から砲撃を受けたのだ(被弾はしなかった)
外国船と誤認したと言うことだが、朝廷からの「攘夷実行」圧力が諸藩に浸透しつつあったと言う側面もあった。
一方で誤認であっても「幕府艦船を砲撃」してしまったと言うことで、責任者であった阿波藩の目付・長坂貞次が
切腹すると言う事態ともなった。
8月7日にも明石海峡を行く長州藩船を、これも外国船と誤認して阿波藩と明石藩の双方から砲撃が行われた。
この時は攘夷実行の一番の推進者である長州船であると言うことで抗議もしにくかったが
朝廷からも事情が事情だけに長州側に取り成すとし、褒賞も与えられた。

朝陽丸は西へ向けて航行するが、この出来事はこの後訪れる悲劇の序章にすぎなかったのだ。。。

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by enokama | 2014-09-07 22:34 | 長府藩・小倉藩 | Comments(0)