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小倉藩の幕末と苦悩~文久3年・長州藩による小倉領田野浦の占拠

6月5日、フランス艦2隻が報復攻撃を行うべく関門海峡にやってくる。
両艦は小倉領・田野浦に停泊し、一部の船員は上陸して攻撃の用意がないか確かめた。
譜代藩である小倉藩は「幕命遵守」で、航行するだけの艦船には砲撃しないことの情報は得ていて
宣戦の理由を書いた文書で、小倉藩経由で真意を長州側に伝えるように事づけたりもしている。
この際の攻撃では前田砲台をフランスは占領し、長州側に大きな打撃を与えている。

このように長州藩の外国船への砲撃は圧倒的な実力差を見せつけられて
各国の報復攻撃を受けて各砲台は破壊され、防衛の無力さも感じられた。
こういった中で、高杉晋作が中心となって「奇兵隊」が結成される。
各地の破壊された砲台の修築や再構築も課題となったが、海峡対岸の小倉藩の傍観ぶりが彼らから見て
我慢ならないものであって、とうとう実力行使となるのである。



6月20日、武装した奇兵隊士ら110名が渡海し田野浦を不法占拠。
砲台の築立て・陣屋の建築を強行した。
田野浦の他に大里の久留米藩船屋敷にも砲台を構えている。
(奇兵隊日記)
六月二十日 河上弥市其外田之浦渡海人民大キニ服シ皆我法令二従ふ由
六月二十五日 田之浦へ粮米草鞋其外差送候事
六月二十七日 田之浦へ大砲を送候事
七月六日  田之浦砲䑓成就二十九寸十三寸白炮試験打ちゑし候事

田野浦の高台から下関方面
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小倉藩では外国との交渉も差し迫る中での「内戦状態」となる事態を危惧し
彼らの暴挙をガマンして衝突を避け、見守る選択をした。
それまでも、先立って小倉藩の御用飛脚の暗殺や下関の渡船場では小倉領の人間だとわかると収監し
何日も留置するなど、無法行為を繰り返していた。
また田野浦では民家が隊士らの宿泊に取られ、所構わず大砲の海へ向けての試射が繰り返し行われ
商家への強奪もあり、漁業を中心とする多くの住民の穏やかな生活がまったく破壊されて行ったのだ。
この寄せ集めの連中には「武士の情け」などない。おそらく隊律もまだ未整備だったのかもしれないが
ただ思うがままに「気に食わない者は殺せ」「従わないものは力で服従させろ」無法行為を繰り返す
風潮を増幅させる、放蕩ぶりだけが目立っていたのだ。

田野浦の看板
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現在は埋め立てが進んで海岸線が遠く見えない。
長州の陣屋跡は今の③鳴瀧地蔵のあたりにあったと言う。

こういった中で幕府の糾問史派遣と正親町勅使の下向が進行していたのである。

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by enokama | 2014-09-04 23:58 | 長府藩・小倉藩 | Comments(0)