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小倉藩の幕末と苦悩~文久3年・攘夷実行を巡る長州藩との対立

文久3年5月10日の「攘夷期限」に先立つ、幕府の達しでは「襲来候節は掃攘致し候」と言う文言があり
その解釈は「外国船が攻撃してきた時に打ち払う」(襲来打払)と受け取られる。
一方で、朝廷からも「夷国船見掛かけしだい二念なく打ち払え」 と言う命も発せられていた。
(ただ朝廷側でも「一方的な打ち払い」と言う意味での解釈ではなかったと言う)
この文久初め一連の「攘夷論」を引っ張り、鷹司関白や三条実美と言った公家を動かし
上洛した将軍後見職の慶喜らに圧力をかけた中心は長州の久坂玄瑞らであった。
幕命は軽視し、勅命を重視するのは必然であり「見掛けしだい」との文言の面で単に航行する外国船に
関しても対象にするのか、久坂玄瑞らの判断は強硬論であった。

早速、関門海峡を航行する異国船に無差別に発砲した。
本来「幕府への大政委任」体制では幕命が絶対であるが、このころ朝廷が発言権を増す中で
「事柄によっては」諸藩へ直接の沙汰を下すとの勅書が、長州の息がかかる鷹司関白から
将軍・家茂に渡されていたと言う前提もあったが、この朝廷・幕府の命がこの後、統一されず各方面から
の圧力もあってバラバラに出される状況ともなり、どちらを重視していいのかいわゆる「政令二途」に至る
問題が小倉藩を苦しめ、のちの悲劇ともつながるのだ。



この攘夷実行令に関して関門海峡を抱える、一方の小倉藩も単に航行する外国船は対象になるのか
従来から通商関係にあったオランダ・清の扱いはどうするのか。
5月3日になって幕府に質問状が提出された。
大坂留守居役を経由して在京中の幕府老中に宛ててのものだったが
その書簡のやり取りの間に攘夷期限の10日を迎えてしまう。

その10日夕刻、小倉領・田野浦に米国船・ペンブローグ号が停泊していた。
小倉藩警衛士は尋問し「夜になるので一晩停泊する」との返事があったが
その夜、長州藩の軍艦からの砲撃が突如始まり、ペンブローグ号はこの地を立ち去った。。。

田野浦は関門海峡の瀬戸内海側からの入口にあたり、複雑に入り組んで寸時に潮流も激しく変わる
この海峡を目前にして「潮待ち」としての要所ともなっていた。
この数次にわたる長州砲台からの砲撃には、田野浦に退避する外国船も見られ
地図上にも見られるように馬関側砲台からの「射程距離」からは、遥に外れる場所であった。
「田野浦からも砲撃ができれば」・・・当然、長州藩側からもはがゆい思いがあったのだろう。
海峡を通る船を確実に打ち払うには、海峡の両側からの砲撃が必須である。

5月24日、長州の使者が小倉にやってきた。
数次に渡る外国船への砲撃に対し、海峡対岸の小倉藩側からは静観するばかりで具体的な行動が見えない
長州藩からは「攘夷実行の勅命違反」を迫るが、小倉藩は従来の譜代藩の立場からも
「大政委任を受けた幕命遵守」を主張して平行線をたどる。
小倉藩からの幕府への問い合わせには「襲来の場合に打ち払い」との返事があり
一方、長州藩からもあった朝廷への「清・オランダ船の取り扱い」に関しては「清は太古からの通商国なので
航行は許すが、オランダは打ち払う」との言質を得て、江戸時代一貫して交易のあったオランダ船にも
砲撃を加えると言う事態となっていた。
ただ小倉藩にも「海峡挟撃」を主張する勢力も少なからずおり、島村志津摩も攘夷を主張して止まなかった。
こういった中、家老の小宮民部は島村を江戸台場警備に転出させ、攘夷論を押さえた。

6月、この膠着状態に長州藩は久坂を京都に出張させ、朝廷の圧力を以て小倉を屈服させるよう工作を
開始する。それを受けた朝廷伝奏から、小倉藩京都留守居役が呼び出され改めて「即刻攘夷実行」を迫るが
幕府在京老中、京都所司代、京都守護職の松平容保らと通じ「あくまで襲来打払」との方針を再確認し
この長州の圧力を受けた勅命を拒否することとなる。
ただ一旦は撥ねつけたものの小笠原長行の一件が結果的に幕府の失態ともなって、尊攘過激派は盛り返し
正親町勅使の西国下向(西国諸藩に攘夷実行の圧力をかける目的)が決定する。
こういった中で、国元の小倉藩からも郡代・河野四郎と勘定奉行・大八木三郎右衛門を江戸に向かわせ
幕府からの糾問使派遣が決定する。
小倉・長州の争いが「幕府・朝廷の代理戦争」の様相を呈してきたのである。

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by enokama | 2014-08-30 23:34 | 長府藩・小倉藩 | Comments(0)