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小倉藩の幕末と苦悩~西国外様雄藩に囲まれた譜代藩の立場

今日から、以前から実際に現地に赴いたりして調べていた「小倉藩」の連載を始めます。
よく「戦勝者史観」として、幕末では「薩長史観」と言って「勝者に都合のいい歴史」として
ムキになって否定する論者もいますが、僕は前から言っているように「否定するなら、その勝者の史観を
しっかりと知ってから言え」としております。
ただ、長州に関しては隣接した諸藩が「その主張を貫徹される」ことによって犠牲になった面が多々あることが
事実なんだけど、それらが「長州における美談や武勇伝」に隠れる形で知られていないことは
本当に不憫って言うか、報われていないようで残念であります。
あまり資料的にもないので限られた物になりますが、少しでも知っていただければと思います。


関ケ原の戦いののち、細川氏が丹後から豊前小倉と移り、小倉城築城と城下町の整備を行った。
肥後の加藤氏が改易となった後、細川氏は熊本へ移り、小倉城へは譜代の小笠原氏が入った。
むろん九州の玄関口である要地での、毛利・黒田・細川・島津と言った外様大名への押さえと言った
意味も強かったのだろう。
幕末まで移封はなかったが、この有力外様大藩に囲まれた立地が幕末動乱期における小倉藩の苦悩と
受難につながることとなる。



藩政は安永6年(1776)家老・犬甘兵庫が大規模な新田開発による農政改革や商人からの運上の
徴発と言った政策で一旦は財政再建に成功するも、最終的には守旧派ににらまれて失脚。
この後も両派の対立が尾を引くこととなる。
天保となって、各地で天災に伴う飢饉が多発、小倉藩の財政も多分にもれず危機に陥っていた。
天保8年(1837)には小倉城の天守閣を初め、多くの城内の建物を焼出する火災が発生
商人からの献納や農民からの臨時徴発で補い、天保11年(1840)に城は再建されるが
財政の悪化もあって、天守閣は再建されることがなかった。
一方で譜代藩特有の幕閣参加における猟官活動への運動費用の莫大な支出や、各地での手伝い普請・
江戸湾における警備と支出は膨らむばかりであった。

こういった困難な中、嘉永5年(1852)若干20歳の島村志津摩が家老に抜擢され、翌6年には
小宮民部が家老となり、二人は対立することが多く、主導権を交互に取りながらも、幕末の藩政の
舵取りを担うこととなる。
産業面では嘉永のころ、強靭で染色に優れた「小倉織」の生産が軌道に乗り
製茶・櫨蠟の生産、上州から技術者を招き養蚕による生糸生産、石炭を始めとする炭鉱の整備も行った。
製茶・生糸は、越前や佐賀で見られたように「開国による貿易」によって外貨を稼いで
藩の財政再建を果たしたが、小倉では成果が思うように上がらず、炭鉱も生産性は上がらず
抜本的な解決にはつながらなかった。
財政面では、島村が京都・大坂の商人と交渉250年賦の返済交渉をし成功、当面の財政を身軽にした。
農政では郡代の河野四郎と 手水帳の総点検を行った。
各役人には私曲があっても咎めないとして、洗いざらい提出させたが
その結果で当初の約束は無視され 多くの大庄屋や庄屋が「不正あり」として免職となり、諸役人の削減や
諸費用の減額につなげた。
一方で犬甘兵庫の改革以降、激しい派閥争いもあって藩政は安定せず、小宮は安政5年
島村は安政6年に一旦は家老を退いている。

当時は日本近海への外国船の来航も相次ぎ「海防」の重要性が高まると その諸政策も重要となる。
実際に小倉藩内でも、万延元年(1860)に英国人が門司に上陸したり、翌年には英国船が関門海峡
付近の測量を行ったりしていた。
文久3年(1863)となって藩では、速戸・門司・葛葉・大里と言った海岸線、城下町を流れる紫川の河口にも
砲台が設けられた。
小宮民部の名を以て農兵の徴募も行われた。

財政の厳しい面があっても、このように一定の「海防策」の手は打たれていた。
あとはその「行使」の仕方である。譜代藩では「幕命優先」と考えるのは当然の成り行きである。
ただその幕府の屋台骨が揺らぎ始め、朝廷やそこに連なる「尊攘藩」に発言が強くなっていた現実は
小倉藩に「困惑・苦悩」と、やがてくる「悲劇」を巻き起こすこととなる。

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by enokama | 2014-08-13 22:55 | 長府藩・小倉藩 | Comments(0)