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エノカマの旅の途中

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慶応四年一月~神戸事件・瀧善三郎の切腹

その1から→)
外国人居留地の北を通る西国街道は、幅二間ほどと当時はまだ狭い道であった。
この街道を東へ向け、家老・日置帯刀の率いる備前池田家藩兵400は縦隊で進む。
三宮神社の前を通り過ぎる頃、山手の商家から浜手の居留地へ行こうとしたフランス水兵が
その行列の前を横切ろうとした。一旦は藩兵らに制止されたものの、それを振り切って強引に横断して
しまったのである。
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よく似た事例は生麦事件でもあったが「供割」は当然無礼であり、攘夷の感情がまだまだ強いころでもあり、藩兵らは憤慨した。
隊長の瀧善三郎はその水兵目がけて、手槍の一撃を加えた。そのことをきっかけに発砲も始まる。
この一報を聞いた英国公使パークスは英国の警備兵、そして碇泊中だったアメリカ・フランス軍艦の兵士を上陸させて応戦、この場で銃撃戦となってしまった。
それを見た家老・日置帯刀はただちに発砲を停止させ、藩兵を山手の方に引き上げさせた。
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まだ鳥羽伏見の戦いの直後で、正式な新政府からの外交政策は出されておらず、居留民の保護は前述の通り
各国が自分たちの手で行っており、それどころか「新政府樹立」の正式な宣言も行っていなかったのだ。
この事件の後、神戸にいた各国公使らは居留地保護のため当地を占拠したうえで、港内に碇泊中の各藩の蒸気船五艘を拿捕した。
一歩、間違えると軍事衝突の可能性もあったのだ。

新政府は一月九日に外交事務に関する一応の組織は設けていた。
仁和寺宮嘉彰親王が外国事務総裁。議定に三条実美。参与に東久世道禧、岩下方平(薩摩)後藤象二郎(土佐)が外国事務掛として、この事件での実務を取り仕切った。
岩下は前年に使節として、パリ万博に赴き(幕府と対抗するように薩摩も出展していた)その協力者だったフランス人・モンブランと十一月に帰国していた。
モンブランは薩英戦争後の講和の条件に出た「薩摩スチューデント」と呼ばれた慶応元年の薩摩藩英国留学生派遣の際、五代才助がヨーロッパ諸国における「通商」の可能性を探っていたころに知り合った人物で武器・艦船や各種工作機械等の輸入、このパリ万博出展、ベルギーと薩摩との合弁商社計画(実現しなかった)などでの協力者となっていた。
ただ、この時期の日本への(外交顧問的な立場での)入国には親幕派の多いフランス人と言うことで猜疑の目で見る者も多かったと言う。
一旦は鹿児島に入っていたが、前年末に五代と共に兵庫に入っていた。
岩下は大坂に赴き、五代とモンブラン、伊地知貞馨・松木弘安(寺島宗則)・吉井幸輔・木場清生と、幕末の一貫した「開国通商」政策を進めてきた薩摩でも海外留学経験や実務経験に長けた面々を集め、会議を行った。
この際に決まったのは「万国公法」を以て対処するとし、これに法り、先に手を出した方に非があるとして、備前藩からの謝罪を求めることとなった。そして新政府としても「開国和親」の方針をはっきりと示すとした。
一月十六日には各国公使から神戸事件での謝罪を求める公文書が東久世に送られる。
外国事務総督となった伊達宗城や岩倉具視は朝議の席で、開国の方針と共にこの処分方針を公卿らに納得させ、備前池田候にも理解を求める。
そんな中で初代・兵庫県知事となる伊藤俊輔(博文)から五代に宛て、次の書簡が残されている。

朝廷甚不幸なることに付、速に御所置相着候様御計ひ火急事と申事に御座候。
固より此儀は今般御改革、朝廷政府日本を征伏すること可出来哉否を試み第一事にて
此事速に相決申候上は、各国公使政府に離付の心も可相極大機に有之候由噂仕居申候。

ここで速やかに新政府の方針を出し、速やかな処置を取って、各国公使の信頼を得るチャンスとなるだろう。
そして隊長・瀧の死罪が決まるが、その刑は切腹とすることとなる。
ただし、新政府の外交方針を認め、伊藤の思惑通り、迅速な判断は各国公使の信頼を得た面もあった。

ここで一切は解決となったが、この後の五代・伊藤は再度、各国公使に掛け合って瀧の助命嘆願に走り回っていたのである。
(五代は一月二十三日に正式に外国事務掛参与となる。この時、三十四歳)
外国留学もあり、外国人との交渉にも幾度も臨んだ経験のある二人からは意外に思えるが
「国家の危機を救った」恩人としての思いもあったのかもしれない・・・

ただ「再発防止」を訴える各国公使の賛意を得られず、瀧の切腹の日となる。
二月九日、兵庫の永福寺で瀧は作法通り切腹して果てた。
「いまははや森の日陰となりぬれと 朝日に匂う屋まと魂」
伊藤俊輔は「見届けられましたか」と万感の思いで外国人たちに語った・・・


もう一つエピソードがある。
フランスが加害者を薩摩藩士と一時誤解し
その薩摩藩士が警備していた宇和島藩の洋式汽船を拘束して、一部金品を強奪した。
この件に関して五代は細かい損害調書を作成し、フランスに対し奪われた金品の返却と補償を求めたが
立て続けに起こった外交事件(堺事件~パークス襲撃事件)の対処に追われ、結果取り返すことができなかった。
実は宇和島藩名義になっていたが叙爵されていない者(五代)は汽船を持てない決まりがあったためであって(宗城の名前を貸していた)実際は五代とグラバーの共同所有の汽船だったものである。
五代って本当にいろんな面ですごい人物ですよね。。。

(→その3へ)

(五代友厚関連)
五代友厚連載→その1その2その3その4その5その6その7その8その9
神戸事件→その1その2その3  
堺事件 その1その2その3その4
パークス襲撃事件→その1その2

Commented by 浅川文恵 at 2017-07-22 22:32 x
9/16土曜15時開演で神戸市東灘区のコープこうべ生活文化センターホールでまさに「神戸事件始末 瀧善三郎の最期」を公演予定です。コープこうべ生活文化センター35周年記念イベントとして公演しますが、コープこうべの…お客様の反応薄く、開催が危ぶまれるほどの状況となっています。
夙川座まで是非お声かけくださいませ。
0798-55-8297 夙川座
Commented by enokama at 2017-07-25 13:34
了解しました。また各所で紹介しておきます!
by enokama | 2014-02-24 23:14 | 神戸・阪神間 | Comments(2)