エノカマの旅の途中

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慶応4年1月・神戸事件~神戸開港に至るまでの経緯

神戸事件についての記事です。
参考文献は以前、NHKの教育テレビでやっていた「さかのぼり日本史」の番組本で
独立を守った”現実外交”←これ大事な事 です。
出てくるのが、幕府外交官の岩瀬忠震・井上清直、幕府老中の水野忠邦・阿部正弘
薩英戦争での五代才助・松木弘安、そしてこの「神戸事件」と4つ取り上げられています。
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1858(安政5年)日米修好通商条約を皮切りに、諸外国と次々に「開港・貿易」につながる
条約が結ばれた(→関連記事
神奈川(実質は横浜)・長崎・箱館の開港(安政6年6月)に次いで、12月に新潟(実際には大船を碇泊させるには水深等の問題があって、代替地の検討(酒田・七尾あたり)もされたことがあり、かなり遅れた開港となる)
太陽暦で1862年1月1日にあたる、文久元年12月9日には江戸開市。
1863年1月1日(文久2年12月7日)には大坂開市・兵庫開港と定められていた。



横浜で海外貿易が始まり、各国の公使らも日本に赴任するが
それまで内需のみだった生活物資等を含む品が輸出に振り分けられることで、物資の不足・物価高騰を招き
その憤懣は在留外国人(振る舞い)にも向けられ「攘夷」を叫ぶ浪士らによる外国人殺傷事件もおき、京都における朝廷の「攘夷論」も根強く、期日通りの開港が難しい情勢となっていた。

この事態に米国公使ハリス・英国公使オールコックの了承を得て、当時の幕府老中の安藤・久世政権は文久元年(1862)勘定奉行・竹内保徳を外国奉行兼任として正使とし、神奈川奉行も兼ねる外国奉行の松平康英を副使とし「文久遣欧使節」として、主に「開港延期を求める(5年延長)」ことを主目的とし、23名の使節団が派遣された。
この中には通弁として、薩摩きっての開明派で明治になって外務大臣も務めた松木弘安(寺島宗則)蘭学者でも知られた福沢諭吉・箕作秋坪、のち明治屈指のジャーナリスト・福地源一郎の名も見られる。

交渉は英国・ロンドンで行われ、二港開港(神戸・新潟)・二都開市の1868年1月1日への5年間延期が決められた。
一方で諸大名がその物産を直接外人に売ることの禁、開港場に於いて外人と交易する者の資格の制限
日本士民の私に外人と交際するの禁等の制限の規制緩和が求められ
数々起こった「攘夷論者」による異人に対する殺傷事件の賠償等もあって
井上・岩瀬らの修好通商条約締結の際に決められた関税は二割(20%)から五分(5%)とされ
不利な条件を呑まされることとなった(「ロンドン覚書」)
彼らの滞在は約1年に及んだが、帰国した文久2年に安藤・久世体制はすでに崩壊し
松平春嶽が政事総裁職、徳川慶喜が将軍後見職となる体制となっていて
彼らは「開国論」を以て、京都に向かうが厚い朝廷の「攘夷」の壁に阻まれることとなる。
逆に朝廷の「攘夷論」を呑む形で、慶喜は「横浜鎖港」を進め
文久3年にはフランスに向け再度、使節団が送られることとなるのだ。


さらに5年が経って、いよいよその5年の期日が迫ってくる。 
神戸開港問題は慶喜の奮闘?もあって(→こちら)慶応3年5月勅許を得る(開港日 慶応3年12月7日) 
一旦閉鎖されていた兵庫奉行を復置し、外国奉行だった柴田剛中が兵庫奉行に7月に赴任する。
この動きに先だって、幕府は勘定奉行・小栗忠順らが大資本を以て外国資本と競争対抗する必要性から商社設立を計画し(「神戸商社」)大坂商人の出資で組織化を図り、この形態は「日本初の株式会社」と言えるものであろう。。
6月に加島屋・鴻池屋ら20人の豪商を集め、商社設立御用として任命する(のち幕府瓦解となり頓挫)一方で横浜の例にならって、神戸居留地の造成は8月から始まった。
その地はかつて勝海舟が主導して、設置されていた神戸海軍操練所跡地も含まれる。

慶応3年は大政奉還、王政復古と「幕府廃止」に至ることとなり、新しい朝廷の下での政権もまだ見通しが立たず、そんな中で12月16日となって下坂していた慶喜は、6か国の各国公使を大坂城で引見。
「引き続き我が国の政体を定までは、外交は自分があたる」とはっきり宣言したことで、各国公使らも安堵し。
当然、新政権ではその外交権を放棄させることが課題となるが、新政府での慶喜の議定就任も濃厚となって
政権の主導権を握ろうとする大久保利通らは窮地にあった。
しかし年が明け、鳥羽伏見の戦いがおこってしまい不利を悟る(錦の御旗が出る。朝敵とされる恐れ)
と慶喜は大坂を退去してしまう。
その慶喜は外国公使たちに書簡を残していた。
「我々はあなたたちを守る力はもうないので、各自で大坂を脱出して自衛手段を取ってほしい」と伝える。
実際に大坂は無政府状態となって、公使館が襲撃される事態も起こっていた。
公使らは神戸へ移るが、すでに神戸奉行の柴田らも江戸へ退去していた。
居留地の警備も自分たちで行わなくてはならない。

そんな中、新政府は譜代・尼崎藩への牽制のため、備前藩に西宮警備を命じていた。
その陸路を岡山から東進していた一隊約500名が、1月11日午後二時ごろ、居留地の北側に位置する
三宮神社前に達するころに事件は起こった。。。

(五代友厚関連)
五代友厚連載→その1その2その3その4その5その6その7その8その9
神戸事件→その1その2その3  
堺事件 その1その2その3その4
パークス襲撃事件→その1その2

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Commented by 浅川文恵 at 2017-06-30 22:34 x
はじめまして。 わたしどもは、クラシック音楽劇を企画や公演をしています。2017年9月16土曜日、15時開演(14時半開場)、コープこうべ生活文化センター35周年記念イベントとして、クラシック音楽劇「神戸事件始末 瀧善三郎の最期」をコープこうべ生活文化センターホールにて公演します。
ご興味ありましたら、チラシをお送りいたします。
よろしければ、是非お待ちしております。
お一人様前売り券2700円(当日券3240円)

お問い合わせは、(株)夙川座 電話0798‐55‐8297です。
by enokama | 2014-02-13 23:23 | 歴史連載 | Comments(1)