エノカマの旅の途中

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BS歴史館・岩倉具視~蟄居と秘密活動

こちらからの続きです。。。

列参は下級公家中心の行動で、従来の朝廷秩序を乱す行動ではあったが
「天皇の意に沿う」ものとして大義名分も立ったことから、咎めもなかった。
岩倉の凄味は、ただ単に通商開国条約に「反対」したことで、攘夷論に凝り固まることではなく
直ちにこれからの諸外国との付き合い、ゆくゆくの条約まで構想した意見書を天皇に提出する。
反対だけでなく、ちゃんと対案的な事案も考えての行動でもあったのだ。




岩倉は内心では単純な攘夷は難しいとわかっていた。
そこで帝(天皇)の意思で朝廷から外国へと使節団を送る。
朝廷・幕府・大名から、それぞれ2名をアメリカへ送る。米公使ハリスに対しては「相手国のことを知った上で」と
交渉・調印を引き延ばす。また、軍備やそれにかかる兵略・財政問題と具体的な数字も論じていた。

しかし結果的に幕府は「無勅許」の状態で、アメリカと条約を結ぶこととなる(→こちら
そして、その挙に対して異を唱えた徳川斉昭・徳川慶勝・松平春嶽を、大老・井伊直弼は謹慎の処分とする。
当然「無勅許」には孝明天皇の怒りも大きく、井伊を糾弾する内容で朝廷側から幕政改革を求める
「戊牛の密勅」が出され、それが水戸藩に直接、渡ったことから当然「武家諸法度」(諸藩の直接の
政治行動での朝廷との接触を禁ずる)に反することでもあった。
このこともあって「安政の大獄」の嵐が吹き荒れることとなる。
条約に関しては国内の武備充実を図った上で、条約引き戻し(破約攘夷)をすると言うことで
朝幕間の合意はできていた。

その井伊体制も「暗殺」と言う結末となって、引き続き「公武合体」(和宮降嫁)の動きとなる(→関連記事
孝明天皇は当然「ノー」であったが、岩倉が中心となって「破約攘夷」に関して「条約撤回期限10年以内」と
言う回答を幕府から引き出したことで、天皇も軟化(攘夷>妹)この世紀の婚儀が実現した。
こののち、朝廷が国政について幕府に要求できる立場となった。
しかし、さらなる強硬攘夷論者は幕府と結びつくこの動きに反発(土佐・武市半平太ら)
岩倉は弾劾され、洛外東北の地に隠棲となるのだ。

この隠棲地で岩倉は「毒を盛られるのを警戒」して、自炊していたほどだが
一方で世話をしていた西川珍儀は僧侶に変装して洛内に潜入し、床屋で世情を調査したり
邸内でも意見書をいくつも書いていた。
そして、この風説を聞きつけ志士たちの出入りも盛んとなる。
中でも大久保利通とのつながりは有名だが、大久保にとっては「朝廷内の工作」が可能となる。
大政奉還となるが朝廷にはビジョンがなかった(摂政・二条斉政などは、自分たちの所領のことを心配する
程度で、国政を担当できるような器ではなかった))
その人物は、岩倉であって「摂関家廃絶」を始めとして派閥・利権の廃絶を行い(能力主義)
然るべきポストに収まるのであった(→関連記事

最後に孝明天皇と岩倉の関係ですが、低い身分の岩倉を引き立てて
意見にも耳を傾けたのは事実だし、実際の行動にも現れています。
だから、この天皇なくして「策士」とも呼ばれた、この幕末維新期の岩倉具視はありえなかったと思うんです。
いろいろと岩倉関連の書籍を、安政のころからしっかりと辿ってもらえらえば
「孝明天皇を毒殺した」ってのはありえない考えになるんですがね。。。
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by enokama | 2014-01-22 23:25 | 歴史連載 | Comments(0)