エノカマの旅の途中

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石清水八幡宮の史跡

昨年12月に霊山歴史館の木村武仁さんの案内で行われた
石清水八幡宮ウォークのレポです!

実際歩いたのとは逆ですが(ケーブル利用)山麓から参拝するような順序で載せたいと思います。

まず、一の鳥居をくぐる手前を右に行ったところにある航海記念塔
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空風火水地と並ぶ五輪塔。日本一大きいとされるもので、摂津尼崎の(貿易)商人が「航海安全」を
祈って建てられたと言う。
ここは知りませんでしたが、巨大さで圧倒されました。。。



一の鳥居。こちらから参道が始まる
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高良社
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回廊のある頓宮(御旅所)はきれいに整備され、かつては極楽寺と言う寺もあった(神仏習合)
あまりにも立派なので、仁和寺の法師が山上の本宮まで行かず、こちらで参拝を済ませてしまったと言う
逸話もあるとか・・・
このあたりに慶応4年(1868)1月の鳥羽伏見の戦いで旧幕府軍の大垣・桑名勢が陣を敷いた。
大垣藩に関しては鳥羽街道の先鋒・桑名藩・新選組らと共に、小原兵部の指揮で大坂表から1月3日に
淀へ入り、5日になって伏見街道で戦闘となるも劣勢となり、八幡まで退く。
こんな中で朝廷参与となっていた兵部の義父・鉄心は進軍を押しとどめようと、書簡を以て使者を送るが
戦闘となってしまい、一時的に「朝敵」となるも、藩論をまとめ「新政府側」に付くこととなる(小原鉄心伝) 
この八幡では長州の第二奇兵隊との戦闘となって、各寺社も灰塵となり高良神社と頓宮はのちに再建されるも
極楽寺は再建されることはなかった。

二の鳥居と頼朝ゆかりの松
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念仏寺
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男山山麓の北東の寺にある寺。鳥羽伏見の戦いで桑名・大垣藩の陣地となって
本堂庫裏を焼失したが「戊辰史蹟」の石碑が建てられている。

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こちらには大垣藩士・名波常蔵の墓がある。


本殿手前にある社務所
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元治元年(1864)次々と上洛を図らんとする長洲兵は、福原越後ら遊撃隊を中心とした500名が
6月24日に伏見に入り、続いて真木・久坂・入江らの諸隊300名は山崎に入り
天王山・離宮八幡宮・宝寺等、京の入口の要害に駐屯する。
そして7月となって、嵯峨・天龍寺にも陣を配し、朝廷にプレッシャーをかけ「長州復権」の歎願運動を起こし
久坂らは「攘夷論」についての正当性を主張する。
7月17日、一戦も避けられない情勢になりつつある中、長州の諸将はこの男山に集まり軍議を行う。
ここで世子・毛利元徳の上洛を待って、行動を起こすべきとの福原越後の意向に同意する久坂と
(筑前浪士・中村円太はこの元徳の上洛を促すために、長州に戻っていった)
「機先を制して、相手の防備が整う前に一戦し叩くべし」と主張する真木・来島が対立する。
そして「禁門の変」となり、彼らの多くはことごとく、命を落とすこととなる(→関連記事

本殿
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石清水八幡宮は八幡宮の総本社である宇佐八幡宮から勧請されたのが始まりで
一時期は淀川対岸にあたる山崎・離宮八幡宮(石清水元宮)が「石清水八幡宮」となっていた。
京都の裏鬼門(南西方向)となって「朝廷の祈願所」となり、反乱等の国難が迫った時に
天皇の行幸場所となっていた。

文久3年、対外関係の脅威もあって「攘夷親征論」が叫ばれる頃、朝廷を牛耳つつあった尊攘勢力は
宮部鼎蔵・平井収二郎らの周辺から「加茂・石清水行幸」の建白が出され
3月11日に上賀茂・下賀茂両社への天皇行幸が実現する。
続いて、彼らは鷹司関白を動かし「石清水行幸」を画し、これも4月11日に行われることとなった。
ただ、参預会議が瓦解し春嶽・久光らが帰国後、朝廷勢力への接近を図る、当時は将軍後見職の座に
あった(→このころ)徳川慶喜は、この一連の動きの裏での密計を怪しみ中川宮を動かして
行幸の中止を図るも、尊攘派には抗することができず、その日が迫った。
そこで慶喜は一策を講じ、このころ上洛中だった将軍・家茂は前夜「風邪熱発」とし、行幸供奉を辞退させた。
孝明天皇も体調が悪く「行幸延期」を周辺は図るが、三条実美らの要請で(仮病かと疑ってもいたらしい)
体調を押して行幸は行われた。
これには一計があって天皇・関白を動かして、慶喜に対し「攘夷の節刀」を授けんとするものだった。
慶喜は当日、石清水の山下まで来たるも「腹痛・下痢」を訴え、これまた参詣はかなわず
三条らの画策も実現せずに終わった(これまた「仮病」説が根強いけど「慶喜公伝」では本当としている)
この後、三条や尊攘派らは「大和行幸」を画策するも、とうとう彼らの動きを封じ込めるクーデターが起こるのであった。

信長塀
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信長の寄進です

楠木正成の大楠
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竹林とエジソン
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展望
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山崎方面で競馬場のスタンドや天王山方面が望める!
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by enokama | 2014-01-19 23:14 | 私の好きな京都 | Comments(0)