エノカマの旅の途中

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BS歴史館・岩倉具視~堀田正睦の入洛と八十八人列参

少し前の放送ですが、まとめてみました。

例のT○Sだったら、加治将一のくだらない妄想でまとめられてしまうところなんですが
今日の放送では初めて知ったことも多くって、いい内容でした。

まずお札の顔での岩倉ってことで(私も知っている世代でありますが)なんか怖いな~って印象は覚えています。
それにしても伊藤博文・岩倉具視・板垣退助の並びは、僕としては実によかったですね。
(逆に嫌いな人も多そうだけど 苦笑)
伊藤なんて今も札になっていたら「韓国の反日」対象の象徴になっていたかもしれません。。。
札になりえた時代が長らくあったってことは、今の韓国の連中に火をつけた人間がいるってことかも
しれませんね。おかしな人たちも多いですからね。
伊藤は調べれば調べるほど、あれだけ時代を先取った偉人はいないのですが・・・



岩倉は下級公家で堺町御門近くの九条・鷹司と言った摂関家に隠れるように150石ぽっきりの屋敷が
あった。
ペリー来航等もあって政治に目覚めた岩倉は29歳の時、関白を長らく務め、朝廷屈指の実力者だった
鷹司政通の歌の門人となって「公家は歌や蹴鞠にいそしむことが本分だと思ってる者も多いが、朝廷も
国政に参加させるべきだ」との思いで、その人物を見込まれ孝明天皇の近臣となり、発言のチャンスを
得ることとなる。

安政4年。米国駐日公使・ハリスとの「日米和親条約」より、さらに具体的に踏み込んだ貿易・開港地を求める
「日米通商修好条約」の交渉が開明派幕吏の井上清直・岩瀬忠震が中心となって進行していた。
安政5年の年明けには条約の中身もまとまり、あとは調印を待つのみとなっていた。
その前年暮れ、江戸在府の全大名に不時総登城を命じて、岩瀬らが中心となって説明をするが
やはり不理解・反対論も根強い。
そこで幕府の最高権力者である老中首座・堀田正睦は京都へ自身が入り「朝廷勅許」を以て
大名らの同意を取りつけ「開国通商方針」を大々的に国家方針として打ち出そうとした(→こちら

1月21日に江戸を出立。堀田は川路聖謨と岩瀬を同行、朝廷から勅許を得ようとする。
これまでの幕威盛んなころなら、このような勅許は黙認であったが、時代は「尊皇論」も増えてきて
朝廷の威光・発言権も強いものとなってきていた。
「幕府の方針に追従する」との従来の方針通り、関白の九条尚忠は当初、慣例通り認める動きとし
(やはり幕府からの一定の「心づけ」はあったが)
早くから「開国は不可避」との認識だった鷹司(前関白・太閤)も認める動きだったが
天皇の本心は「開国不可」として二人とは違っていた。
この気持ちを察した岩倉を中心に中下級公家88人の列参というデモで行動を興し
「天皇の意に沿う」と言うことで反対意見が通った形で「不勅許」となってしまい、傷心の堀田は
江戸へ帰ってまもなく、井伊大老の実現によって、老中を罷免となってしまう。
随行した岩瀬らは京都での閉鎖性、なおさら公家らの無知・不理解もあって、その弁舌も生かせずに
終わったようだ。
なお、岩瀬らの開国通商論へのアシストと「一橋派将軍継嗣擁立」での役割として、越前藩の橋本左内が
入洛しており、同時期には井伊の腹心・長野主膳も「紀伊派」の工作で入洛しており、それが開国問題とも
絡み合って、3月の列参前には「長野が説得した九条が反対」「左内が説得した鷹司が賛成」となって
開国が主なのか、継嗣問題が主なのか、あいまいになったような感もあって
勅許は得られず、継嗣問題も敗れ、彼らの命取りとなってしまうのです。

慣例も打ち破ってしまう行動力・・・これが岩倉の凄味の序章でもありました!
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by enokama | 2013-12-20 23:54 | 歴史連載 | Comments(0)