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同志社の出来る前の薩摩藩邸のころと山本覚馬

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京都の薩摩藩邸は従来、錦小路にあった(現在の京都大丸近くに碑がある)
平和な時代だと京での買い物や朝廷・公卿との儀礼が主だったが、幕末の動乱期になると、新たに藩兵も
収容できるような大きな藩邸が必要となって、そこで今の同志社大学の敷地にもあたる、相国寺南西部の
土地を文久元年(1861)20年の契約で借りたのが、こちらの藩邸(薩摩二本松屋敷)の始まりである。
元々は塔頭の一つがあったものの、火災等が相次ぎ空き地のようになっていた場所であったと言う。



相国寺と薩摩の縁は、あの関ケ原の戦いでの敗戦後「敵中突破」に始まる島津義弘の薩摩への帰還のさい
畿内の伊賀越から堺港への道中を案内した大坂町人・田辺道与は、海路で義弘軍を薩摩へ無事に送り届けた。
そこで義弘は道与に感状として自ら僧形の寿像を与え、家伝の秘薬を伝授したと言う(田辺製薬の前身)
その像が京都・相国寺塔頭林光院にあって、代々供養の資を送っていた。
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そして二本松藩屋敷の設置(文久二年)から、幕府権威の低下から始まった公武合体の動きや
幕政改革を求め、朝廷警備を名目に(元治元年の禁門の変で薩摩が長州を攻撃した名分でもある)
国父・島津久光は率兵上洛を果たすが、この行動での後ろ盾であった孝明天皇の密勅を得る際にも
林光院僧侶の仲介の労があった。
やがて二本松藩邸は薩長同盟の締結場(諸説ある)となり、慶応になって(この時点ではまだ朝敵だった)
長州勢は密かに潜入し討幕工作の舞台となり、維新回天に重要な場所となっていくのだ。

鳥羽伏見の戦いでは相国寺養源院に病院が置かれ(薬師如来像があったためとも言われる)近代戦への
変化に伴い従来の刀創から、鉄砲創からの敗血症・感染症へと治療内容は変化し高度化が求められた。
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この現状を見た砲隊長・大山巌から西郷・大久保、さらに薩摩きっての開明派・五代友厚(近代大阪の父)の
ルートで神戸にあった英国大使・パークスに交渉、英国領事館付医官のウイリスが招かれることとなる。
ここで効果を発揮したのが日本初のクロロフォルム麻酔を使った四肢切断手術である。有名なのは
のちの大村益次郎遭難時のボードウインの肢切断手術であるが(結果的に処置が遅れたために手遅れ)
ウィリスはこの地で多くの外科手術を行い、敵味方の区別なく診察にあたったと言う。
官軍(新政府軍)の進軍にも帯同し、会津まで従軍。合計16例の四肢切断手術を行っている。
維新後は東京医学校兼大病院長に任命されたが、明治政府はドイツ医学の採用をしたため
ウィリスは鹿児島に招聘され、当地での医療近代化に尽くし、西南戦争勃発時まで滞在した。
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養源院にはこの薩摩との縁もあってか、のちに近衛邸から書院と茶室、池泉式庭園が移築されて残っている。
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また施術の行われた一室の柱には無数の刀傷が残っている。手術の痛みに耐えかねてとも
負傷して戦地に赴けない鬱憤を晴らすためとも言われている。

このころ、この屋敷に幽閉されていた山本覚馬(ドラマにあるような酷い環境ではなく、比較的厚遇
されていた)は薩摩の小松・西郷や岩倉具視がその見識にほれ込み
のちに京都府顧問となって、京都府大参事・槙村正直とともに、日本でも飛びぬけて早かった学校の設置
舎密局(化学研究)の設置、八重も関わることとなった女紅場(女学校)の設置。また、従来から種痘の
先駆的な土地であった京都でのさらなる近代医学教育の導入から、各種病院の設置へとつながっていった。
この中でのエピソードで祇園に作られた私立療病館では、覚馬自らが祇園きっての由緒ある
お茶屋の一つ・一力楼主に掛け合って、芸娼妓に対して梅毒の検査を行う療養所を設置している。
(娼妓に関する検査は江戸末期、長崎での蘭学医・松本良順による例もある)

維新後は京都の各藩邸跡は、基本的に明治政府に上地される訳だが(例外なく、この地も上地される。
借地であったが、相国寺の土地であったこの地は廃仏毀釈の絡みもあったよう)
のちに元薩摩藩士に払い下げられ、殖産産業の場として桑の栽培などを図ったが、石ころが多かったりして
うまく行かない所もあり、のち縁あって同志社の土地となった(最初は小さかったが、だんだん周辺の
土地を買い足していった)
最初、新島襄は大阪での開校を目指したが「キリスト教」に対する偏見も強く
当時の大阪府大参事・渡辺昇は、肥前大村藩出身の過激な尊攘志士あがりで、大のキリスト教嫌いでも
あり理解が得られず、妻となる八重の兄で京都きっての実力者となっていた山本覚馬の口添えもあって
この地に同志社は開校した(相国寺側も当初「キリスト」と聞いて、いい顔をしなかったと言う)
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by enokama | 2013-09-17 21:59 | 私の好きな京都 | Comments(0)