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エノカマの旅の途中

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御手洗港~薩摩藩の貿易と雄藩連合

こちらからの続きです

こちらも薩摩御用達の船宿(脇屋家住宅)
御手洗港~薩摩藩の貿易と雄藩連合_f0010195_0101998.jpg
普通に幕末当時の建物がいくつも残っているのが御手洗。
呉からも1時間以上かかるし、かなり遠い印象なのも逆に町並みが残された理由でもあるんだろう。
昔はやはり水運の利便性が発展につながったんでしょうね。
どこも今は寂れた感もあるけど、北前船の寄港地ってのも、どこもいい雰囲気ですからね。



薩摩はいわゆる一般的な江戸時代の定義「鎖国体制」の中でも、琉球を通じた密貿易は
よく知られているところ。
基本は600年続いた海に開けた民族だし、幕末に「開港」となると早速、表だって貿易の枠組みを
作ることとなる。
平野国臣や真木和泉ともつながりを持った、有馬新七ら攘夷派は「寺田屋騒動」で一応の決着をつけた。
その後の生麦事件は偶発にすぎない出来事だったが、「薩英戦争」では負けはしなかったものの
外国の軍事技術力を改めて知ることとなり、その戦後交渉の一項で「留学生」を英国に派遣することとなる。
この留学の過程で、新興国ベルギーのモンブランと言う人物と合弁で「ベルギー商社」構想を目論見
薩摩独自の海外外交ルートをも模索した。むろん、その当事者は薩摩きって開明派・五代才助である。
そして国内では、その主に長崎での貿易に向けた物産の開発も含めた「藩際貿易」に乗り出す。

芸州の他、南部藩と元治元年三月に約定を結び、主に昆布が送られる。
越前福井藩とは慶応二年三月、藩重役・伊地知貞馨の意を受けた長崎詰めの汾陽次郎右衛門が
福井に入り、茶・生糸と言った物産を長崎に送る計画を立てる。
文久以前には横井小楠の意を受けた三岡八郎らの殖産政策や海外貿易で一応の成功を見たが
一方の拠点の横浜は鎖港の動きや、幕府の積極的な攻勢で締め付けもきびしくなっていた。
このころ小楠一派は藩政から退けられていて、一時の勢いもなくなっていたが
この薩摩を通じた長崎ルートで、再度の構築を図ったものである。
また、五代を通じたグラバーらの外国人商人からの武器購入の直接依頼もしていたと言う。
ただ諸事情により、この越前との動きは長続きしなかった。

このような経済的なつながりに、慶応2年以降には長州も入り「馬関商社」構想があり
慶応三年の兵庫開港に備えては「大和方カンパニー」の構想もあった。
一方の幕府も小栗忠順が中心となって、横浜や神戸での貿易を中心とした「兵庫商社」も作られている。
これら一連の展開は、いずれも「久光四天王」の一人・伊地知貞馨や小松帯刀が中心となって
実務は長崎に詰める五代才助が行っていた。
(ちなみに伊地知貞馨(当時は堀五郎)は文久元年、桜田門外の変の後の幕権弱化の情勢で
藩が参勤交代の出府延期を図った時に、江戸の薩摩屋敷を自焼させ「出府しても入るところがない」とした
奇策を行った中心人物でもあった)
西国雄藩の連合はこうして実利を伴った動きもあり、親藩である越前も薩摩と反目する行動には
なりえないことで、基本同調した動きにならざるを得なかっただろうと思われる。

こちらで慶応三年十一月二十六日、長州兵の第一陣の艦隊が入り、芸州藩との間に「御手洗条約」
長芸出兵の盟約)が結ばれた。
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こちらは日本最古の時計屋とも呼ばれています(新光時計店)
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港の風景
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食事は脇坂屋でいただきました→HP
もちろん魚はおいしいに決まっている!

他にも見どころがいっぱいありますので(もっといっぱい画像は撮っています)
ぜひ、お越しいただきたいところです。。。
by enokama | 2013-04-03 23:06 | 歴史連載 | Comments(0)