エノカマの旅の途中

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御手洗港~芸州藩と幕末維新

遅くなりましたが、昨年に霊山歴史館の研修旅行で行った広島のレポを書きます。

瀬戸内海の大崎下島の御手洗港に行きました!
こちらも幕末に重要な地となった所であります。

今は呉から橋が何本も架かって、車でそのまま行くことができます。
広域合併で豊町は呉市に含まれるようになっています。
こちらは瀬戸内海の潮待ち・風待ちの港として
西廻り航路の拠点として大いに栄えました。。。
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今は「大長みかん」の産地として全国的にも知られる所です。
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まずは幕末の芸州藩の動きから・・・



芸州藩の幕末維新の一連の改革は
浅野分家から入った浅野長訓が藩主となって、文久2年(1862)に改革派の首領として目されていた
辻将曹が年寄役となって、身分にこだわらない能力重視の人材登用を行ったことから始まる。
海外からの圧力もあって、芸州でも海防の必要性に迫られ
軍制は洋式に改められ、銃隊の充実も図られ、農兵の登用も図られた(あまりうまくいかなかった)
辻は財政経理の専任から、第一次征長の舞台としての(切腹した3家老の首実験は広島で行われた)
藩の立場から、やがて薩長への接近~大政奉還の建白(芸州も提出していた)と
藩政の舵取り役となって、幕末維新の表舞台に登場してくる。
その下には船越洋之助、植田乙次郎と言った「討幕論」にやがて傾いていく人物も登用されていった。

殖産政策では樟脳、養蚕、製茶と言った商品作物を奨励し
開国に伴う有力な外貨獲得の生産物資として、主に薩摩とのラインによって長崎に送られる動きがあった。。
文久3年には薩摩の経済官僚の一人・伊地知貞馨と役定を結び、芸州に十万両を貸与し、その返済には
年々米1万石を(利子をつけて)交付する。
この大々的な両藩の交易は元治元年から開始。芸州からは銅、鉄、米、木綿、繰綿、塩が薩摩に送られ
薩摩からは生蠟、種油、錫が送られた 
慶応2年後半からは、長州とも経済交流が活発となる。
そしてその経済交流から政治的にも三藩は結びつき、慶応3年には「薩長芸」と王政復古クーデターを
視野に入れた出兵の枠組みに入ることとなる。
ただ完全に慢性的な財政窮乏からの脱出とはならず、兵力的にも薩長土に比べて劣っていたことは否めず
それもあって、鳥羽伏見の戦いでも戦闘に加わらなかったこともあり、芸州の存在感は一歩後退して
しまうのであった。

その薩摩との交易の場となったのが御手洗港である。
西廻り海運の重要な基地であり、なかでも町年寄も務めた豪商・竹原屋は日向延岡藩に大名貸し
するほどの豪商だった。
こちらも豪商・藤本屋の記録では、肥前の石炭を(石炭焚きで製塩するので)瀬戸内の塩田に売る商いが
大きな利益を上げていた。 
御手洗では芸州で生産される銑鉄が製糖用鉄鍋の材料となることで、砂糖の生産地・薩摩との取引が
古くからあった。
それを前述のように薩摩との間を大きく広げた窓口がこの竹原屋であった。
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ガイドマップでは「七卿落遺蹟」とかいてあります。
八一八の政変で三田尻へ落ちた七卿が、元治元年「禁門の変」に至る長州兵の上洛に続いて
京都へ向かうが讃岐の多度津に着いたところ、敗戦の報を知る。
その帰りに宿泊したのが竹原屋であった。
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つづく・・・
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by enokama | 2013-03-31 23:46 | 歴史連載 | Comments(0)