土佐藩白川邸と陸援隊
引き続き、佐佐木高行の日記からです。
さてこの建白も既に薩芸両藩の同意を得た以上は、一刻も早く帰国して、老公の御意を伺わなくてはならぬと、
翌三日後藤、寺村、真邊らが京都を出発して帰途に就いた。もとより建白は正義である。
あるが、幕府の方は悪感情を持つに違いない。将軍は兎も角、臣下が異議あるに違ひないから
十分兵力を貯へて盡力しなければならぬ。
彼の兵力に厭せらるる様では到底目的を貫く譯にもいかぬと思うたから、その際後藤に二大隊位の兵が
なくてはと出兵のことを注意すると、後藤も賛成して(中略)近い中に二大隊が繰り込んで来ると思うて
同二十六日その兵を収容する陣地を見聞した。一豊藩には二ヶ所の陣営がある。
白川邸と大佛境内の智積院(容堂上洛時の常宿として、よく文献で見られる)とである。
これも智積院は借入の處だ。白川邸は頗る不便の地であるが、佐幕家が智積院に兵を置く時は
却って事変の際、その渦中に捲き込まれるといふ事を恐れて、強いてコンな辺境の地を買い入れたのだ。
既に白川邸がある以上は、智積院の方は返すといふ議論が起ったが、自分は大に之に反対して
当分また仮置く事にした。
同所は頗る要地である。進退懸引にも便利である。
(だがこの時の土佐出兵は見送りとなる→こちらとこちら)
この頃京都は幕府の歩兵が横行して、町屋に侵入して、時々金銭を強奪するのみならず、盗賊が多いので町民は大に恐怖して、薩土盡下宿を歓迎する。
実際薩土の人は居らなくても、その災難を免れるため、町屋から願出て、門標に薩州下宿とか、土州下宿
とか記しておく。従って隋意に下宿も選択できる。
(中略)
七月二十七日、石川誠之助の申立を容れて、白川邸に浪人を差し置く事にした。
さてかういふ事に成った次第はどうかといふと、かねて石川が自分の處に来て、この頃幕府からまたまた
浪人狩を始めた様で現に柳馬場に下宿の対州浪人橘某は既に捕縛された。就ては吾々同志も随所に
下宿して居るには甚だ険呑であるから、一纏にして白川邸へ御差置を願いたいと内密に申出でた。
けれども政庁の方は十分に勤王論ではない。浪人などは大に忌んで居る。今大政返上建白の進行中
これ位の事で障害を来す様ではならぬし、また浪人には他藩人が多いので、猥にても出しがたい場合
であるから、内々由比に事情を話した處が意外に時勢が分って居って、早速同意したので
異論が起らない中と、独断で以てその運びにしたのだ。由比は参政中の上席株であり、また御陸目附の
樋口真吉も同志であり、下横目の唯次郎、健二郎等もやはり同志であるから、万事都合がよかった。これに就て他日罪人を出す様な場合には、もとより自分一人で責任を負ふ覚悟であった。
案の條自分が長崎へ行ってから、大分藩の方で異論が起って由比からもその事を手紙で云うて来たが
時勢上何とも処置することは出来なかった様である。
大政奉還=武力を伴わないとして「平和革命」と例えるような書き方をする論者も相変わらず多いが
本来、土佐在京重役の間では、この薩摩・芸州との同意は当然、藩の出兵を前提したものであった。
結果的に「言論だけで周旋」と言うのは、あくまで山内容堂の意志であるもの。
土佐や薩摩の下宿は「ボディガード」的なものも兼ねていたと言う歓迎された面もあった。
白川邸のことはこの文献以上に詳しく書かれたものを僕は知らないが、海防目的で設置された住吉陣屋から家屋施設を白川に移築したのも
後藤象二郎は七月三日に帰藩し、往復二十日もすれば兵を連れて上洛すると言っていたが
九月になって、兵も連れずようやく上洛を果たす。
そこで、いっこうに使われる様子のない白川邸を「浪人保護」の目的で、石川(中岡)は使おうとする。
遅れて上洛した後藤が兵を連れてきたとしたら、どうしたのだろうかと思うが
土佐軍自体は、主戦派の乾退助や旧勤王党の息が多くかかっていたとも思われるので
水戸や三河が多かった陸援隊「浪人」との兼ね合いもあるが、一定の「一会桑」への脅威となったかも
しれない。
または藩邸への攻撃は「戦争状態」ともなるので(「池田屋事件」の場合は最悪を逃れたが)
新たな火種ともなった可能性もあるし、違った展開もあったであろう。