人気ブログランキング | 話題のタグを見る

エノカマの旅の途中

enokama.exblog.jp

旅と歴史と競馬のお話をします

ブログトップ

山内容堂の佐久間象山・土佐藩招聘の動き

中岡慎太郎年表→こちら

大河「八重の桜」も2回目となりましたが
FACEBOOKの方でよく佐久間象山の話題になっていまして
象山は中岡慎太郎との縁もあって、文久二年(1862)十二月に松代まで会いに行ったりするわけですが
その目的ってのは「維新土佐勤王史」の記述にもあるように、山内容堂には「土佐藩への象山招聘」って
構想があり、やはり同じ意を持っていたと言う長州の久坂玄瑞・山県半蔵と同道したと
僕も思い込んでいたんですが、実はこの時には別ルートでの土佐藩の動きもあったんです。

主な参考資料は、おなじみ平尾道雄先生の「山内容堂」などの著作です。
「陸援隊始末記」止まりだったら、細かいところはわからなかったとも思うんで
平尾先生の奥の深さは、さすがだと思います。
ただ象山側からの資料は、まだ読めてないので、土佐側からの解釈としてご容赦ください。。。



この十二月ってのは、安政元年(1854)あの吉田松陰の密航計画に連座(って言うか、象山の方がむしろ
けしかけたって面もあるとも言われる)して処分されていた象山が、安政の大獄処分者の復権の流れもあって
国元・松代での蟄居を解かれるのが決まっていた(十二月二十五日に正式赦免)
そこで、この人材を求めたのが土佐前藩主・容堂で、この年の四月に暗殺された開明派の吉田東洋に
匹敵する(もちろん、それ以上だが)人物として狙いをつけた。

そして、松代藩主・真田幸教に向け書簡を送る。 

一書研北に呈し候。(中略)然れば御家臣佐久間修理事、今に厳遣蒙り居り候趣、己後寛宥の命下り候時
は弊藩へ招き申したく予め願い置き候間、宜しく希い奉り候。右に付家僕貴藩へ差遣し候。先ずは要用
のみ批の如くに御座候。頓首。

十二月十九日 容堂拝
真田君 座下

この書簡を以て、正使として侍臣の衣斐小平と原平四郎を松代に派遣する。
(おそらく到着は二十一日ごろ?)
すでに門人・蟻川賢之助が洋式練兵の教官として土佐藩に迎えられたこともあり、感触もよく
藩主・幸教と象山も内諾し、象山は感激のあまり自ら、書三書を揮毫したという。

しかし年が明け、象山は松代藩から表用人として政務役を仰せつけれたとして
幸教から容堂への手紙の草稿があり、申し出を辞退する。

当今切迫の際家政も改革、兵制も一新致したく取り掛かり居り、右の者罷在らず候はば甚だ差支え
候筋これあり 

一方の土佐側・寺村左膳日記三月二日の記述には
「かねて真田候と御約定済みになり居り候佐久間修理儀、当時勢につき暫時御見合」とある。
このころ容堂は京都に入り、幕政改革に乗り出していた一橋(徳川)慶喜、松平春嶽らと「公武合体」
「開国」の姿勢を以て「攘夷論」に固まる朝廷との交渉に入るが、その取り巻きの志士らの過激な動き
ピークを迎えた「尊攘論」に屈する形で、五月に幕府は「攘夷期限」を約束させられることとなる。
この攘夷の動きには、東洋を暗殺した「土佐勤王党」も当然加わっている。
この後、容堂は土佐に七年ぶりに帰国するが、その渦の中に象山を受け入れることなどできないと改めて
悟ったかもしれない。
こうして、この話はなくなった・・・
まあ受け入れてたとしても、テロや不逞浪士が跋扈する中では、開国論者の象山の命がいくつあっても
足らなかったかもしれない。
実際に翌元治元年、今度は慶喜の要請で京都に入った象山は、やはり暗殺されてしまう運命となった。

ちなみに千屋菊次郎の日記に「命を受け」と容堂直での松代行きを受けたとする記述があるが
慎太郎の松代入りは、水戸を経て「二十七日高崎沓掛をへて、上田 松代に至る」とあって
二十八日あたりとなるんで、もう正使が入って話を詰めた後になるんですよね。
だからどれぐらいの命の重さがあったのか、重要な案件だったら最優先で進めるべきでしょうし・・・
また別の意味を持った松代行きだったのかもしれません。

ただ、慎太郎自身には「尊攘の総本山・水戸」と象山との出会いは、その志士活動の始まりにおいて
重要な意味を持った時期だったと思います!
by enokama | 2013-01-19 23:15 | 土佐藩 | Comments(0)