エノカマの旅の途中

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富海と幕末の志士(2012年訪問)

かつては山口の表玄関だった港町・防府(三田尻)ですが
今は新幹線が徳山・小郡(あんまり「新山口」って言うのは抵抗がある)に停まる関係で
その中間にある防府には、どちらかの駅からか在来線に乗り換えて行くことになります。

徳山(あんまり「周南市」って言うのにも抵抗がある)から在来線に乗ったら結構
海岸線を通る区間があって(意外に山陽線で海岸線を走ることは少ない)いい感じだし
高速の山陽道だったら、富海PAあたりからきれいに海が見えるんですよね!

その富海に先日の長州行きの際に行ってきました。。。
駅間距離にして、防府からは一駅なんだけど東に7キロも行ったところになります!
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まあJR西って地方の駅は、ほったらかしって感じにも見えてしまうんですが(苦笑)
その典型的な無人駅って風情であります(昔の本線だから今では無駄に広くって、なおさら寂しい感じ)



国道のバイパスはだいぶ北の方に走ってるんで、駅南側にある旧山陽道沿いは
コンビニ一つない、昔の風情が十分残っているところです。

三田尻港は水深の深い良港で、幕末期には長州の海軍の拠点となって
薩摩の軍艦も立ち寄っていた大きな港ですが(今は工業地帯)
この富海は駅の南側(旧山陽道の海側)が海水浴場になっているように、遠浅で今では小さな漁港の風情ですが
よく幕末の書物を見ていると、志士たちがやたら「富海から出発・出港」って記述があるんですよね。
「なんで素直に三田尻から出ないんだ」って、よく事情の分からない者にとっては謎でもあって
かなり昔から行きたかった場所だったんです・・・

こちらは宿場町でもあって「富海本陣」門が残っている
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ちょうど史跡めぐりをしてました。

港町らしい路地
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この地は江戸時代から明治前半にかけて「飛船」と言う、小型ながらも帆を一杯に上げて
小気味よい速力で走る旅客船が発達しており、富海はその拠点でありました。
「船蔵通り」には飛船問屋が並び、賑やかだったようです。
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飛船問屋・大和屋政助の船蔵
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吉田松陰も富海の飛船をよく使っていたようですが、この大和屋は何と言っても高杉晋作。
ここへの出発、ここへの逃亡、ここへの逃亡と(逃げる拠点なんだ・・・)
窮地に陥った高杉をその都度助け、二階の部屋にも匿ったことがあったそうだ。
「天誅組の大和挙兵」で落ちてきた中山忠光も富海に入り、この船蔵にて匿われている。
それと書籍が見当たらなくって前の記憶なんですが、土佐の脱藩浪士ってかなり長州に来てるでしょう。
それがほとんど富海から入ってるんですよね。そう言った「潜行」と言うのが、この飛船の性質(小さくて速い)
にも合って志士たちに使われ、その手助けをした飛船問屋がいたってことなんですね。

お墓は街道沿いの駅に近いところにあった
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次に船蔵通りから西へ、低いガードをくぐって、さらに南西に言ったところに
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こちらも飛船問屋・入本屋磯七宅(当時のままなのかな?崩れそうになってる)
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庭に井上・伊藤の上陸碑が
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ご存じ「長州ファイブ」の二人でありますが、英国滞在半年ほど経ったころに
ふと見た新聞にて、外国艦隊が集結し「馬関攻撃計画」があることを知ります。
そして井上聞多、伊藤俊輔は急遽帰国の判断をし、英国船で大分・姫島に送られ
そこから富海に上陸しています。これが元治元年6月24日でした。
そして二人は英語力を使って、戦後処理にも当たって行きます。

富海は静かなところでした・・・
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by enokama | 2012-12-26 23:17 | 長州藩 | Comments(0)