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エノカマの旅の途中

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大阪城西側から谷町~松屋町の史跡

2012年12月に書いた以前の記事ですが
5月25日に参加した大阪龍馬会の史跡探訪と適塾記念会でもらった資料で
追記・訂正しておりますので、改めて更新しています。


大阪商工会議所(赤印)
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「大阪の父」 五代友厚の銅像はこちらにもある。
隣りは五代の盟友でもあった 土居通夫で宇和島藩出身の人物。

こちらは西町奉行所跡の碑(東町奉行所→こちら
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享保の大火のあと、隣接した東西両方の奉行所が焼けてしまっては都合悪いとのことで「西町奉行所」はこちらに移転した。



このあたりの町割り
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通りで町を区切るのではなく、通りを挟んだ区画で町を作った秀吉の狙いがわかる。

大阪舎密局・ハラタマ像(オレンジ印)
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舎密(せいみ)とは化学(いわゆるバケガク)のことで、江戸時代から明治まで用いられたオランダ語から取った用語。
幕末、幕府に招聘されたオランダ人講師・ハラタマは長崎でまず教鞭を取り、開成所での化学教授として江戸へ向かうが、幕府瓦解となってしまう。
そのころ大阪府知事となった後藤象二郎は「大阪舎密局」の構想を以て、その強い要望でハラタマらの講師陣の招聘が実現し、この付近で開校し住居も構えた。
明治五年まであって、その後の京都大学の前身となる。

大阪英語学校跡(緑印)
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こちらも明治二年~五年にかけてあった。

大村益次郎殉難報国碑(青印)
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大阪医療センターに隣接し、昭和十五年に建てられた。
戦争間近でもあって、建立関係者にもそれらしい名前が並ぶ!

大村が大坂にいて適塾に通っていたころ、当初いた倉敷屋作右衛門の部屋(→石碑あり)からさらに移って
中央区徳井町にあった大村が借りた部屋「漏月庵」昭和十八年にはその跡地の碑も立てられたが、現在は失われている。
(追記 「漏月庵」跡碑は令和二年に再建)
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大坂医療センターの場所には大阪府病院が明治二年七月に置かれ(この建物の建設中は浪華仮病院(大阪仮病院)が置かれた・明治二年二月~七月まで大福寺にあった→ここ
十一月五日に京都で襲撃された大村は大坂に送られボードウィンの執刀手術も及ばず、この地で亡くなっている。
また、この十一月には病院に隣接して大阪府医学校が建設されて、のちの大阪大学の前身となっている(医学の阪大・化学の京大となる源流)。
また、現在の大阪医療センターは司馬遼太郎氏の亡くなった場所でもあって
「花神」の主人公・大村益次郎と同じ地でなくなったと言う因果があったりします。

by enokama | 2014-06-13 23:42 | 大坂発見 | Comments(0)