大久保利通の大坂遷都論と明治天皇の大坂行幸
約400年前、東本願寺別院として慶長11年(1606)創建であり
このほど近くにあった、大塩平八郎の陽明学講義所「大塩書院」の当主・白井家を初め
関係者の多くの菩提寺でもあります。
また、文政13年(1830年)に、大塩平八郎が大阪西町奉行所与力・内山彦次郎に宛てた手紙が
この寺に保存されています。
1号線近くに立つ大塩書院跡の碑
この日は本堂にて
いつもお世話になっている、霊山歴史館の木村幸比古先生の講演をお聞きしました。
講演の際のメモと、佐々木克氏の書籍を参照してまとめたいと思います。
慶応四年。
年明け早々に始まった薩長を中心とする新政府軍と、旧幕府軍とのいわゆる「鳥羽伏見の戦い」は
錦の御旗が出ると言う出来事があったものの、数の上では圧倒するはずの旧幕側の士気は上がらず
早々とその勝敗の決着がついた。
戦いが思いの外、早く終わった中、新しい政権構想を急遽打ち出すことを求められた大久保利通は
前年12月初めのクーデターで成立した王政復古新政府の総裁・有栖川宮に対し
1月23日に明治天皇が大坂に行幸した上で滞在する、いわゆる大坂遷都(正式には浪華遷都)を進言した
建白を提出する。
これは前年11月における伊地知正治の提唱した建白を腹案にしたとも考えられ(→桐野さんの参考記事)
遷都することでの政治一新、保守因循の公卿に牛耳られた朝廷の改革と共に
天皇を表に出して国民の目にも開かれた存在とし、まさに「御一新」とし世間にアピールする目的もあった。
続いて、2月には三条・岩倉に向けて「一新の策」として、総裁ー八部局の体制。
そして「天皇親政」として積極的な議事への関与も提言された。
「大坂遷都」には反対意見も多く構想は停滞するも、一方の「大坂行幸」を行うことでのアピールについて
大久保は執念を燃やし、行幸は3月22日に実現、守口にて一泊(宿泊は近隣の難宗寺)
この際、盛泉寺書院にて三種の神器が奉安、仮宮殿とされた。
(このことは一時、首都がこちらにあったと言える)
書院
十分な行幸に備えた下見において選ばれたこの書院には、ふさわしい上段の間も備え
賢所(内待所)とされた。
翌日、天皇は大坂・西本願寺津村別院(北御堂)に入った。
この行幸では大久保の目論見もあって、表に出た天皇を拝んでもいいとお触れが出たが
庶民は恐れ多くて、拝むことはできなかったと言う。
その後、四月の江戸城開城から関東平定が進み、焼かれずに残った江戸の各機関を生かすことも意見した
前島密の「江戸遷都論」が大きく取り上げられ、大久保を外した上で大坂遷都は幻と消え
今度は八月に江戸を改めた東京への天皇行幸が決定。
明治と改元した九月二十日に出発。3300人の行列と初めて表に天皇の姿を確認した民衆に改めて
「御一新」の強烈な印象を植え付けた。
その後一旦、天皇は京に戻り、翌二年に再び東京行幸が行われ、そのまま滞在。
以後、東京が日本の首都と周知されることとなる。
明治への改元の際にも自ら籤を引き、大久保の当時の思惑の通り
開明的な考えを持つようになった明治天皇は、さすがに実現はしなかったものの「岩倉使節団」での
外遊への参加も求めたと言う。
その時に大きく株を上げたのが英語ができ、自分の言葉で交渉できると評価された
のちに初代総理大臣となる伊藤博文であり
明治天皇の信頼も大きくなる。ただ女性問題では直接、怒られたそう(笑)
もっと伊藤が評価されてもいいと言われていました。
また、慶応と言う元号は「慶喜に応ずる」と取って、山口では使われなかった話など
(実際にはなかった元治2、3・・・って感じで、灯篭などの年号にもなっている。)
面白い話も聞けました!
今後、古くなった建物の改修や、国の文化財登録への働きかけへの
呼びかけも行う予定です。
近くには旧街道の守口宿の街並みも残ってますし、ぜひ一度訪れていただきたい場所です!