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北垣国道と生野義挙~河上弥市の最後と山田顕義の生野訪問

河上弥市らは北部からの豊岡・出石藩の攻めに備えて
生野から八キロ北の山口・妙見山に本陣を構えた。
元々城跡である岩洲山だが、山頂に妙見堂の祠があるので、地元住民からは「妙見山」と呼ばれていた。
ここに大石を運び上げ、大砲を引き上げ、水・兵糧を蓄えて麓の兵たちを狙い撃ちするべく、陣を築き上げた。

代官所から出た一行が一旦入った西念寺(この後、妙見堂に入る)
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国道312号線から少し入った山口護国神社のバス停
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河上らが本陣の解散を知ったのは翌十四日朝。
昼前に村役人に命じた兵糧の催促をしたが、村人らの多くは避難してしまい
浪士らの捕縛指令も出る中、誰も協力しなくなってしまった事態に陥っていたのである。

午後四時、彼らは山を下りるが待ち構えた農民らの襲撃を受け
一人が重傷を負った。
そして自らの運命を悟り、山伏岩と言われる巨石の上で十三人が次々に自決した。
中でも秋月出身の戸原卯橘は全員の介錯をした後、自身の喉を搔き切り、壮絶な最後を遂げたと言う。
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遺骸は山伏岩の傍らに葬られ
のちに墓碑や祠も設けられ、現在「山口護国神社」となっている。
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地元では河上弥市の変名「南八郎」の最後として、語り継がれてきたそうだ。


時代は下がって明治25年、そのころ体調を崩して退官し療養生活に入っていた山田顕義は
山口への帰省から東京へ戻る途中、急遽予定を変えて生野を訪れ
そして、一歳年上で又従弟であった河上弥市の墓参に、この山口の地も訪れている。
その後は外国人技師の指導を仰ぎ、近代化を果たした生野銀山に視察に赴いた。。。
しかし坑道の入口で突然倒れ、急死する。
死因は病死と発表されたが、護国寺の山田顕義墓所が発掘された際に「頭部への損傷」が確認され
生野でも「坑道内での事故死だった」という話が当時から伝えられてきたそうであって
死因の現実味が証明された形となった(→関連記事
それにしても生野が終焉の地となったのも、何か運命的な気がしますね。


北垣国道関連→その1その2その3その4その5その6その7その8その9琵琶湖疏水
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by enokama | 2012-04-01 10:25 | 歴史連載 | Comments(0)