エノカマの旅の途中

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北垣国道と生野義挙~生野の町とその後の北垣・平野の運命

生野銀山を擁する生野は幕府天領として、また但馬の玄関口として栄えたところ(→詳しく

当時の掛屋(両替商のような場所)や宿屋の一部は当時のままに残されています!
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トロッコ道の跡
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こちらは生野書院
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大正期の材木商の建物を改装した施設で、代官所時代の資料や「生野の変」関連の資料が所蔵されています。
関連書籍も多数揃っていて、コピー(有料)もすることができました。
銀山の資料や平野国臣の笛、幕府瓦解時に当地を接収した薩摩藩士(三島道庸や黒田(おそらく嘉右衛門))
らの筆跡も残されています。
平野国臣の研究者の方が福岡から取材に来られたともお聞きしました。。。


さて代官所の占拠は澤宣嘉一行の生野入りから、五條の様な血なまぐさい騒乱を起こしたくない
意向を持ってか、代官留守を預かる元締・武井庄三郎の配慮もあって円滑に明け渡しは完了し
程なく「農兵微募」の発令が行われ、当時の庄屋ネットワークを伝って正午ごろまでに
但馬各地から二千人に及ぶ農民が竹槍・兵糧を携え集結し、最終的には五千人に達したと言う。
ただ人足としても連れてこられた農民らは、浪士らが抜き身の槍刀を携え、駆り立てるあまりに恐怖におびえ
また代官所の御用と勘違いした者も多く、いざとなっての戦力にはほとんどならなかったであろう。

肝心の首脳間でも、強硬派(少壮派)の河上らと自重を主張する平野・北垣らとの意見の統一ができず
また軍議でも生野へ籠もって敵を迎える論と、京都進出を図って長州、七卿の復権を訴える論と方針が
未だ定まらず、この間に代官所元締・武井は姫路・出石両藩へ密使を送り
早々の鎮静軍の到着も時間の問題となった。
十三日午後、河上弥市らの少壮派は生野の北・妙見山に出陣。
強硬派がいなくなり、これを幸いとばかりに生野本陣は午後十時、早くも解散と決し、結果的に戦うことなく
澤卿を落とすべく、脱出をはかる(澤は長州に戻った)
そして到着した出石、姫路らの幕府側鎮静軍は、集まった農民らに対し挙兵した浪士たちの討ち取りを命じ
彼らは逆に徴兵した農民らの追捕を受けることとなり、討ち取られた浪士の悲劇が各地で見られた。

北垣は能座の実家に戻り自決をしようとするも、母りきの涙の説得により断念し
因州(鳥取藩)に逃れ、のち長州に入って、戊辰戦争ではその一員として東北にも従軍して官職への道が開け
のちの京都府知事及び北海道開拓長官として明治に大きな功績を残した。
母りきは生野代官所の尋問にあったが、川上代官の処分が比較的寛大であって拷問等もなく
北垣は述懐でも感謝している様子である。
また、元締の武井や挙兵浪士らの手助けをした恰好となった町役人らにもきつい咎めはなく
その処置を不服として、会津藩の広沢安任らが入るが要求を撥ねつけ
結果的に川上は東北への異動を命じられることとなる。

平野は一旦、北垣の実家に立ち寄り、因州に向かう意志だったようだが
養父の上網場で豊岡藩によって捕らえられ、京の六角獄へ送られた(その捕縛の地には碑が建てられている)
そして禁門の変による火災の際に、本多泰行、横田友次郎、天誅組残党らの多くの同志と共に斬首されている。


最後に孤軍となってしまった河上弥市らの運命を・・・

北垣国道関連→その1その2その3その4その5その6その7その8その9琵琶湖疏水
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Commented by 山笑 at 2012-03-31 23:51 x
昨年の秋以来、「七卿落ち」にハマっておりまして、作間久吉氏の「七卿芳跡」や尾崎三良の速記録、それから「生野義挙止其同志」などを読んで色々と調べております。うわ~、ここにも行ってみたいですね~。
Commented by enokama at 2012-04-02 23:31
>山笑さん
七卿落ちの石碑は各地にありますからね!
その足跡をたどる旅もおもしろいでしょうね。。。

生野も当時を偲ぶゆかりの場所がよく残されているんで
ぜひ訪れてみてください!
by enokama | 2012-03-31 22:45 | 歴史連載 | Comments(2)