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エノカマの旅の途中

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北垣国道と生野義挙~但馬農兵の実現と美玉三平

その5から→)
薩摩出身で美玉三平と言う男がいた。
江戸の昌平黌にも学んだが、清河八郎らの「虎尾の会」に名を連ねて、過激な尊王攘夷活動に入り
薩摩でも強硬な一派だった有馬新七、大山綱良らの画策した
長崎での外国人襲撃計画(未遂に終わる)にも関与していた。
有馬らが上意討ちされた寺田屋騒動では捕われの身となったが江戸へ逃亡し
文久3年(1863)3月に但馬の地へ逃れ、中島太郎兵衛・太田六兵衛らの豪農層と知り合い意気投合し
能座の北垣国道宅にも匿われ、ここで三条実美にあてた農兵組織の建白書を認め
五月下旬、北垣と共に上洛する。



この当時、日本海側に面した但馬は豊岡・出石と言った小藩と久美浜・生野の天領が錯綜し
小藩では組織的な外国への防衛体制の構築は経済的にも困難であり
天領は一般的に税金が安いと言われたが、それは戦国時代から付き従った「○○家家臣団」と
言った武士の生活も、年貢等によって支えなくてはならなかった諸藩に対し(それも財政難でリストラを
行う場合もあった)ほぼ領国経営に専念した代官を始めとする役人のみで少数に抑えられて
平和な時代では、それで十分であったのである。
飛騨の高山天領では税が安いために独自な文化が花開き
庄内藩に囲まれた大山天領では庄内藩への預かり地になる際、その諸税の重さに対して
住民の反対運動が起きたほどであった。
しかし幕末となり外国への脅威が感じられるとそんな天領でも危機感が募り
外国との外交交渉の場となった伊豆・韮山代官の江川英龍は早くから農兵構想を抱き
嘉永2年から幕府に請願するが、実現までにはかなりの時間を要した(→こちら

文久3年8月16日、遂に朝廷から美玉に対して農兵組織の大命が下りる。
これは生野及び久美浜代官への公文を伴うもので、お墨付きをもらったわけである。
この日、平野国臣は正式に学習院出仕となり、翌日には五條での天誅組挙兵の鎮撫として
出張を命じられている。

但馬へ下った美玉は、同志の本多泰行らと早速、生野・久美浜代官と折衝に入る。
生野代官の川上猪太郎も協力的であり、農兵組織の大会議には役人を派遣すると返答した。
そして9月5日。養父明神・普賢寺にて第一回大会議が開催されて
但馬各地の庄屋、生野代官所役人らが多数集まり、農兵組織は第一歩を踏み出した
北垣国道と生野義挙~但馬農兵の実現と美玉三平_f0010195_4192940.jpg

今も「明神さん」と地元の方に親しまれている養父神社。
この社務所として、当時の建物が残されています!

その7へ→)

北垣国道関連→その1その2その3その4その5その6その7その8その9琵琶湖疏水

Commented by 住兵衛 at 2012-03-16 11:50 x
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Commented by enokama at 2012-03-20 21:30
>住兵衛さん
リンクができないのと、コメントの趣旨がわかりませんので
返答・対応しかねます・・・
by enokama | 2012-03-13 23:16 | 歴史連載 | Comments(2)