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エノカマの旅の途中

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北垣国道と生野義挙~平野国臣と天誅組と新選組

その4から→)
文久3年(1863年)3月に平野国臣は釈放された。
平野についてはエピソードも多いんで、別口で調べてみたいとも思ってるんですが
福岡藩「筑前勤王党」の首魁・月形洗蔵の考えも「土佐勤王党」の武市半平太と同様に
「挙藩尊王」と言った、あくまで藩を軸とした組織だった行動であり
文久~元治と言った時期に、各地で多くの尊攘志士が倒れ、命を落とした中でも
その勢力は比較的温存され、窮地に至った長州救済~薩長同盟へと重要な動きを示した。

そんな中で早くから脱藩を繰り返した平野は異端な存在とも言え、大藩・薩摩を「公武合体論」から
「尊王攘夷」へと動かそうと、薩摩脱藩士・伊牟田尚平らと盛んに暗躍し
西郷隆盛には勤王僧・月照の保護を依頼されるなど、信頼関係にもあった。
思想的には彼の論文から見ても「討幕」と言われる定義で見ると一番早い時期から鮮明に示したものであり
(薩長を始めとする諸藩単位での「討幕」とする定義は慶応三年までない)
先鋭的な活動家で、幕府側から見れば最も警戒すべき人物の一人であった。




この頃、京都では長州藩が学習院を牛耳って尊攘派公卿を煽り、朝廷での主導権を握ろうと
天誅(ターゲットは安政の大獄の協力者なども)と呼ばれる暗殺事件を伴う激しい活動を行っていた。
そして8月になり、理論家の真木和泉が画策した大和行幸の勅命が下る。
天皇の攘夷親征を決行する計画であった。
8月16日、京へ上っていた平野は真木らと共に学習院出仕に任ぜられた。
この頃の学習院は三条実美を中心とする尊攘派公卿の政策決定の場となっており
表面上は完全に尊攘派の天下のように見えた。
そんな中、この動きに対応し中山忠光を奉じた吉村虎太郎らは大和での挙兵を計画する。
(関連記事→天誅組その1その2その3
17日、平野はさすがにその過激行動を危惧した三条らから、この挙兵の制止を命じられ
19日になって大和五條に赴くが、すでに「天誅組」と呼ばれた勢力は
天領・五條の代官所を襲撃して、挙兵してしまっていたのである。
ただ平野自身はその動きには賛同していたと言い、内心ではほくそ笑んでいたかもしれず
同行したかつて「虎尾の会」にいた安積五郎は、即座に天誅組に身を投じてしまったほどであった。

しかし前日の8月18日に京都の政局は一変してしまっていた。長州の過激さに業を煮やした
中川宮朝彦親王(尹宮・青蓮院宮などとも称す)は会津藩・薩摩藩と結託して政変(これ以上の過激な行動を望まない孝明天皇の意思もあった)を起こし
御所護衛の任務から長州藩を退去させ、三条ら尊攘派公卿を京都から追放してしまったのである。
(八月十八日の政変)
平野は急ぎ京都へ戻るが、すでに尊攘派は壊滅状態になっていた。
この入京時に平野は執拗に新選組の追尾を受けているが、間一髪の所で逃れている。
この事件は平尾道雄氏の著書に詳しい。
すでに清河八郎はこの四月に幕府の命を受けた刺客に江戸で暗殺され、同様に派手な動きを見せる
平野も抹殺すべき対象となっていた。
この時に検挙されていれば、またこの後の動きも無かったかもしれないが
平野は更なる行動を起こすこととなる・・・

(→その6へ)

北垣国道関連→その1その2その3その4その5その6その7その8その9琵琶湖疏水

by enokama | 2012-02-22 23:18 | 歴史連載 | Comments(0)