エノカマの旅の途中

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北垣国道と生野義挙~文久二年・尊攘浪士たちの結集

いわゆる「討幕」って言う気運がいつから具体化したっていうのは
それぞれ議論はあるだろうし今回の中村武生氏の本でも、いろんな解釈で触れられていて
興味深かったんですが、僕としては慶応三年の四候会議の後かなと思っています。
「薩長同盟」は薩摩から言えば、幕府とも一線を画して独立性を保ち
その再度の勢力増長を警戒しながら、有力雄藩との連携による動きも引き続き模索し
と言えばきれいに聞こえるけど、ある意味どの勢力とも組むことができるフリーハンドな立場を求めていた
面もあったかと・・・まあそれが「したたか」って言われる所以でもあるけど。
幕末の薩摩は西郷・大久保の主導って思われがちだけれども、慶応3年10月に「討幕の密勅」が出て
藩論を以て挙藩出兵が実現するまで、完全に藩を掌握できる立場にはなかったんじゃないかと思う。
ずっと公武合体で来た両高崎らの勢力や、もちろん幕府寄りの保守派もあって、一致した藩論ってのが
この時まで出すのにいたらなかったのだ。

藩主でもない島津久光が藩政を掌握した際に「精忠組」を懐柔して取り込んだ時に
個人行動(突出したテロ活動等)は止して、藩ぐるみで行動すると言い納得させたと伝わるが
その過渡期にあったのが、文久二年(1862年)のいわゆる「寺田屋騒動」に至る動きだった。
年明け早々に和宮降嫁を推進し「公武合体」を推し進めた幕府老中・安藤信正が江戸城坂下門外で
水戸藩士に襲撃され失脚するなど、井伊暗殺で世が動いた事実から「天誅・テロ行為」が幕府に対して
尊王・攘夷を迫る手段として最も激化した時期であった。




関西でもさらに行動を起こすべく、九条関白暗殺・京都所司代の酒井忠義暗殺を謀り
二条城を落として「義挙」のさきがけとなるべく、ぞくぞくと名だたる尊攘志士たちが集結しつつあった。
真木和泉を中心に脱藩してきた吉村虎太郎に平野国臣、藤本鉄石、田中河内介。
江戸で、英国ハリス公使通訳・フュースケンを暗殺した清河八郎・伊牟田尚平・美玉三平といった
「虎尾の会」の攘夷過激派連中。
長州の久坂玄瑞・入江九一らは「航海遠略策」の長井雅楽の弾劾に動いた。
こう言った情勢の中で3月、島津久光は藩士1,000人を率いて上京の途についた。
随行してきた有馬新七・西郷従道・大山巌など誠忠組の急進派も合流し、この機に兵を挙げるつもりでいた。
ところが久光の本意は雄藩諸侯の幕政参加を求めながらも、まだ穏健な公武合体策であり
京都鎮撫を朝廷から命じられたこともあり、4月になって急進派の動きを知った久光は直ちに鎮撫させるか
従わなければ上意討ちするよう命じた。
また先立って彼らの動きを警戒し、鎮撫すべきと独断での命令無視で上洛したとされる西郷隆盛は
久光の怒りを買い、再度の流刑となっている。
そして4月23日「寺田屋騒動」となって「精忠組」の仲間同士での、上意討ちとなるわけである。
この事件もあって、平野・吉村・真木らは藩地に送還され、多くが幽閉の憂き目となる。

清河は江戸で新たに、幕府の政事総裁職となった松平春嶽に働きかけ「浪士組」を結成。
前年に浪士を結集させて、京都での世情をかき回した清河の一転した行動に
ある意味絶縁された薩摩勢、長州土佐の尊攘派からも批判を受けるが
名目は将軍・家茂上洛に際して、過激浪士対策を浪士で以て行うとして認められ
翌三年、上洛を果たすが一転して朝廷のお墨付きをもらい、天朝の兵として東下する。
そしてその行動に反対し、京に残って会津・京都守護職の配下となったのが「新選組」であるが
もちろん彼らも「尊皇攘夷」のスローガンに乗って集まったものであり、大意は清河らと違わない部分も
多かったはずだが、武蔵出身と言う土壌と彼らを支えた支援者たちの期待は
幕府の立場も鑑みたものであった。
坂本竜馬が一歩間違えれば、新撰組にいたかもと言った飛躍したような話もあったが
思想面から言えば、明治維新後に近藤勇を調べた田中光顕が「我々と同一行動を取るべき同志だったはずだ。
ただ立場の相違がお互いの運命を決定づけたのではないか」と言った言葉からも見えるものではないだろうか・・・
この流れから見ると浪士たちの行動は、表裏一体の面もあったのだと思う。

この時期に北垣国道は清河・山岡鉄舟と接触している。
そして前年に挫折した真木・平野・吉村も尊攘派に流れた時勢の変転で釈放され
また各地で暗躍を始める。
彼らの動きによって北垣の農兵構想は違った意味を持ってくるのだ・・・

北垣国道関連→その1その2その3その4その5その6その7その8その9琵琶湖疏水
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by enokama | 2012-02-21 23:12 | 歴史連載 | Comments(0)