エノカマの旅の途中

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北垣国道と生野義挙~長州の攘夷と奇兵隊の結成

天保13年(1842)朝廷の長年の宿願であった、公家子弟への教育機関「学習院」が創設される。
教育内容は一般的な儒学(朱子学・陽明学)・国学と言った学校であったが
桜田門外の変後、再び直接深く朝廷と結びつこうとした、諸藩との折衝の場としての役割も持ってきていた。
「安政の大獄」は幕府の許可なしに、諸藩が朝廷から勅命を以て幕政改革を図ろうとする勢力を弾圧
再び幕威を高めようとする側面もあったが(元来の「法度」の遵守と言う面で、一方的な弾圧とは取れない)
井伊直弼の死により「尊王思想」また、孝明天皇を始めとする朝廷の大多数を支配する「攘夷論」と
結びついた「尊王攘夷派」が京都を中心において、さらに台頭してきた。

この勢力は「学習院出仕」と言う名目で名だたる志士たちが集結し
学習院内は「尊攘派」によって固められ、中下級の公家たちにも彼らに感化され、同調した行動を取るものが現れた。
その代表的な尊攘派公卿が三条実美、姉小路公知。その周囲には久坂玄瑞・真木和泉・平野国臣と言った
そうそうたる尊攘志士メンバーがいた。
(八一八政変後、三条ら「七卿」は長州三田尻に落ち、そちらが一時的に拠点となった)

久坂は文久2年終わりごろから学習院に出仕し、朝廷内での尊攘勢力拡大を目指す一方で
翌3年2月になって、久坂らは「航路遠略策」を掲げた政敵とも言うべき、長井雅楽を切腹に追い込み
長州藩論を「即今攘夷」に向かせ、学習院はそれらの志士に牛耳られていた現状だった。



北垣国道は山岡鉄舟らの幕府サイドに接触する一方、この朝廷サイドにも「農兵構想」を働きかけ
長州の久坂・寺島忠三郎、久留米の真木和泉と言った人物が協力を約束し
北垣には長州行きも勧められた(7月になって赴く)


文久3年4月20日、将軍・家茂が異例の京都上洛の下、尊攘派の勢いに押し切られる格好で
幕府は5月10日を期限として「攘夷実行」を命令する。
このころが「尊攘派」の絶頂期だったかもしれない
そこで久坂・入江九一・吉田稔麿らは長州に帰国し、公卿・中山忠光を奉じて本営を馬関・光明寺におく
(いわゆる光明寺党)ここから長州の「攘夷実行」外国船攻撃が始まる(→関連記事
ただ勝算などなく、やたらめったら砲弾を撃ち込むだけで
6月に各国の報復攻撃を受けて多くの砲台が陥落し敗北が決定的となり、藩は馬関防備の再検討を
高杉晋作に命じた。
正規兵(士分)で構成されたいわゆる「先鋒隊」は、ほぼ戦うことなく敗走した場面もあり
藩主父子も危機感を募らせ、市民たちの信頼も裏切る結果となっていた。
「武士」とは名ばかりで、太平の世が続いたことで戦う術がわからず
兵器も貧弱で「近代戦」としては、まともに対抗することができなかったのである。

「奇兵隊」 (→関連記事 その1その2
夫れ兵に正奇あり。戦に虚実あり。其勢を知る者以て勝を制すべし。
今吾徒の新に編成せんと欲する所は、寡兵を以て敵衆の虚を衝き、神出鬼没して彼を悩ますものに在り。
常に奇道を以て勝を制するものなれば、命ずるに奇兵隊の称を以てせん。
(そしてメンバーは)
隊の義は有志の物相集まり候につき、
陪臣軽率藩士を選ばず、同様に相交わり、もっぱら力量をば選び堅固の隊相ととのえ申すべしと存じ奉り候

吉田松陰の論じた西洋の節制ある歩兵制の採用を説き、主に足軽以下農兵を充てるべきとし
上海渡航時に聞いた「太平天国の乱」での、農兵の強靭なパワーも高杉の印象に残っていたものだった。
一号令で統制ある行動が取りがたい門閥身分制下の士隊より、むしろ身分差別なく規律節制ある
庶民隊の方が鉄砲中心の近代組織戦に適するということが積極的な採用の理由。
少数の指揮官の下に大多数の兵卒を配置し、指揮に忠実な進退をさせる体制では
兵卒内では平等でなければならない。
兵卒に士分を当てるとすると、従来の門閥・身分の上下に縛られて、一体感のある行動はできない。
「有志」の者が加入条件と言うことで庶民にも資格があり、武士との混成部隊でもあったが
その身分は隊内では平等とされた。
藩正規軍「正兵」に対し「奇兵」として、埒外の有志隊との位置づけであって
決してよく誤解される「身分制度の撤廃」や門閥性の廃止ではないので
袖印では士分と匹夫の区別がされたが、入隊中には総督の裁量で士分扱いにされることもあり
このことは募兵における(活躍次第で武士になれる)恰好の宣伝材料とされた。
また「百姓一揆」などの行動における民衆エネルギーの転換・有効活用と言った側面もあった。
だから、決して高杉が「四民平等」と言う考えを新しい社会で目指していると言うことはない。
彼自身も門閥の武士であって、誇りもあるし(赤祢武人との一件でも見られるように)
近代的兵制を作る過程で生まれたものである。

ただ当初は長州に入った幕臣の暗殺や、薩摩船への攻撃撃沈(外国船と間違えたと言う言い訳をした)と
言った事件、正規の士分で構成された「先鋒隊」との軋轢による刃傷沙汰では
責任を取った高杉が、奇兵隊総督を辞任に追い込まれると言った問題も多かったが
中岡慎太郎の一連の論文にも見られるように、数々の戦いを経て兵は鍛えられ淘汰もあり、士気の高さ
戦術の妙、さらに大村・山田と言った軍師の指導・近代兵器導入により、その強剛ぶりが庶民中心で
構成された奇兵隊らの「諸隊」の活躍が、のち一連の戊辰戦争でも際立って行ったのである。
元来は攘夷戦と言った異国対策(海防)の軍隊が発端だったが、イギリス等と一定の和平ののち
協力関係もでき、その戦力は「討幕」へ向けてと変化して行ったのである。

平和な時代なればこそ、門閥・家格の上下による「身分制度の固定化」と言った封建社会は成り立ったが
開国し、国際社会への参加や各国への対抗と言った事態では「国防」は最重要課題となる。
幕府海軍は「門閥無視の完全能力主義」となったが、家格で船は動かせないし
やはり船員・兵士ら自身の生死を委ねることで、実力者が指揮官になることは必至の流れだった。
長州では「奇兵隊」の組織を契機に、古い体制を打破する流れとなって
実力者が指揮を執り、最先端の西洋兵器を導入した近代軍の誕生となった。
また東北戊辰戦争で唯一と言っていい近代軍隊となっていた庄内藩でも
優秀な士官による的確な采配と、それを支えた多くの果敢な民兵の活躍があって
薩長ら百戦錬磨の西軍に対しても、終始優勢に戦いを進めていた。。。


その奇兵隊組織の組立てのなか、馬廻役の家柄でエリートだった河上弥市と言う青年がいた。
そして総督を辞任し、藩政務役に転じた高杉から9月21日に二代目の総督を引き継ぐが
その任は約一か月にすぎない。
死地は故郷から遠く離れた地にあった。

北垣国道関連→その1その2その3その4その5その6その7その8その9琵琶湖疏水
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Commented by 大山格 at 2012-01-20 09:08 x
北垣国道は、戊辰役で山陰道鎮撫使の西園寺公望に長藩柴捨藏として随行した際、故郷の近傍を通過しております。そのおりに同行の薩摩藩番兵一番隊長伊藤祐徳に実名をあかした逸話が『薩藩出軍戦状』の附録「薩藩隊長伊藤祐徳手記」に見えます。上記URLにて御覧いただけますので、よろしければ参考になさってください。
Commented by enokama at 2012-01-21 00:53
>大山格さん
はじめまして、コメントありがとうございます!
貴重な史料の紹介もありがとうございます。
また膨大な量なんでじっくり読ませていただきますね。

本文の方ですが、解釈のおかしい部分があったので訂正いたしました。
素人ブログですが
また、ご教授いただければ幸いであります。
by enokama | 2012-01-19 23:13 | 歴史連載 | Comments(2)