エノカマの旅の途中

enokama.exblog.jp

旅と歴史と競馬のお話をします

ブログトップ

北垣国道と生野義挙~農兵構想と清河八郎の浪士組

北垣国道(当時は晋太郎) は7歳の時から、八鹿町宿南(現養父市)にあった青谿(せいけい)書院の
儒学者・池田草庵に入門する。
草庵は荻生徂徠の流れを受けた、古文辞学派の儒学者・相馬九方に18歳で上京し入門。
のち京都一条に塾を開き、30歳になって故郷に帰り、天保14年(1843)35歳の時、この地に塾を開く。
草庵は佐藤一斎の影響を受け、朱子学と実学を重んじた陽明学を教えた。
福知山藩や豊岡藩学校でも教鞭を取って、全国各地30か国から延べ673人の門人を集めたと言う。
f0010195_1213798.jpg

建物は二階建で、二階が塾生の宿舎、一階が草庵の居室とされ、当時の貴重な遺構が残っている。
(屋根は老朽化のために葺き替えられている)
隣接して資料館があって僕が行ったときは、ちょうど横のお住まい(池田さんで子孫の方だとか)
に管理人さんがおられたので開けていただき、見ることができました。
中には1153点にも及ぶ県指定文化財が管理されています。
著名な儒学者との書簡が多数、展示されていました。
f0010195_1353860.jpg

f0010195_1221041.jpg




やがて北垣は塾頭にもなるが、文久2年(1862)ごろから尊王攘夷運動に入り、当時の時勢での
外国船の脅威に備えるべく(ロシアのプチャーチンらの通過もあった)北海(日本海岸)の防備をしようとも
但馬ではいざとなっても兵力がない現状を嘆き「農兵構想」を考える。
元来、但馬地域は「尊王思想」の強い地域であったようで、多くの豪農層の同意協力を得て
計画を推進することとなる。

師の草庵は、京都での陽明学大家・春日潜庵や梁川星巌と言った尊王攘夷論を持つ儒者
(吉田松陰も彼らの影響を受けている)とも交流はあったが、塾生がそう言った政治活動に進むのには
否定的で、北垣は6歳年上の同門・原六郎(のちに横浜正金銀行頭取となる)と文久3年になって塾を出奔
そして京都に上り、折から浪人取締の任で上洛中であった山岡鉄舟・清河八郎と接触し
「農兵組織策」は老中・板倉勝静に建議されることとなる。
この清河も「浪士組構想」を以て、取りかかりとして徳川家茂の上洛における前衛部隊として
浪士組の上洛を実現させていた。

この中にはのちに「新撰組」となる近藤勇の試衛館一派がいたが、彼らも多摩の農民出身者が多く
近隣住民に剣術を教え、豪農たちの援助もあったというから
この北垣の農兵構想とも通ずるものがあったと思われ、清河も理解しうることだっただろうと思われる。
先週の番組でO氏が「国民軍」と言った表現は、このあたりのことを言ってるんでしょうね。。。

一方、この年には長州でも画期的な諸隊が生まれてくる。
そして北垣も彼らとの出会いによって、予期せぬ運命に巻き込まれて行くのだ・・・

北垣国道関連→その1その2その3その4その5その6その7その8その9琵琶湖疏水
[PR]
by enokama | 2012-01-18 23:58 | 歴史連載 | Comments(0)