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中岡慎太郎「兵談」(慶応3年・大石弥太郎宛)

中岡慎太郎年表→こちら

中岡慎太郎の論文を何回か書いてきましたが
その最後で集大成とも言えるものが、この「兵談」であります!

生き残りの旧土佐勤王党幹部・大石弥太郎(円)は、討幕を決意した乾退助を支えるべく
彼の進める「兵制改革」を共に進めていました。



慶応三年九月二十一日 大石弥太郎宛「兵談」

薩摩の兵制、全く英式に改まりたり。此改正は長州の改制より眼を開きし故、去亥年以来の改制なり
夫までは古流なりし。然るに古流なりし時と雖も、士分一統皆総筒の制にありし故、変革も他藩と違ひ易きなり。
薩藩兵士と云ふは、皆士分のみにて、足軽は兵士にあらず、士間大抵極く小禄にて御国の足軽よりも窮せるもの多し。
少々給を遣はしむれば悦んでなるなり。これ他藩になき処也。
壮士は大抵海陸軍局入り、御扈従及び役人と雖も、一度陸軍場にて訓練を為し、夫より出勤する也。
出京兵士は上国の節、仕舞銀少々下され夫々白衣服など作り、在京月金一両二分、司令士などは三両なり。
右の制にて在京中、此度は別して令行はれ、一同必死戦闘を欲せり。是は軍師伊地知正治の力多し。

長州、御国と同じく大禄士分多く、肉食因循にて、歩卒の業を恥ぢ、中々兵制立ち難く、此の制を高杉夙く
洞見せし故に奇兵隊を始めとし、諸隊を作りたり。
諸隊なる者は陪臣足軽百姓を論ぜず、器により卒となり、長となり、全く有志家の心の儘に取り立てるもの故
将卒一致、追々強兵となり、攘夷の時も、内線の時も四境の追討も皆此の隊の功をなし、国威を耀かしたり。
長防兵制の改革は、来原良蔵以来の事にて、余程世話したけれども中々改まらず、依て此の隊を立て
亥年夷人と戦争、子年京師、又馬関の戦争、丑年内線、みな此の隊が勝利を得し上、再討の事起り
之が為め漸く五十石一人の制なり
全く軍改まりたり、然れども上中士は未だ因循多く、自然度外の物となる。
愚按するに、御国は先ず長州の兵制を習ひ、足軽以上を募って可也。新に農兵など立るは不可也。
御上京とか云へば、自立御供申上げ度と云ふやうなる勢もあるよし。
此度より、以後は、兵制に従はざる者は出兵仰せつけざる様これありがたく、新に足軽以上に令して曰く

此度大義御確定に付ては、一藩の安危を顧みず、上は天朝の為め、下は万民の為め、屹度御尽力遊ばさせられ候間
各々御趣意相守り、万一の節必死の分相尽したき志これある輩、入隊致す様云々仰付けられたく候。

右の通致し、奮発者を挙げて諸士の因循を除けば、自然固まり申すべく候。
何卒此の度は断然御交代仰せ付けられ、貴君にも是非鳥渡なりとも御引率にtr御上京なされたく願ひ上げ奉り候。


薩長の兵制改革を比較して、これからの土佐の取るべき道を示唆している内容。
薩摩はやはり武士自体が多いってことで、中でも貧乏武士が圧倒的に多い。
そこへ給金をはずめば、立ちどころに兵力が整う。
京では交流の深い伊地知正治が「いざ」に備えて、彼らを指導している。
長州は振わない士分の兵に加えて、農兵を高杉が取り入れた「奇兵隊」について。

ここでも慎太郎は長州に倣えとしながらも「農兵」は否定し、土佐は足軽以上で組織するよう書いている。
以前の論文にもあったが、内職必須の貧乏武士を一定の給金で募れば
土佐では十分間に合うと踏んだことだし、農民の立場を守って行くと言う意味もあったのだろう。

幾度となく慎太郎は「兵制」についての論文を書いているが
形となったのは乾退助率いる「土佐迅衝隊」が中山道を行き、東北戦線を進んで行った時であった。
薩長と比べ、やや見劣る面もあったかもしれないが、十分それらに伍して戦功を上げて
「薩長土」と言われるようになる・・・


やはり慎太郎はやはり「戦」とともに過ごし、長州に近い立場もあって
亡き久坂・高杉の遺志を継ぐべく、ほとんどの内容が「用兵論」として同志に伝えています。
坂本龍馬の「新政府綱領八策」の署名と「薩長同盟」の裏書に比べたら
現代の社会では理解されにくいだろうし、やはり地味なので知られにくいのかもしれません・・・
将来のビジョンとしては「天皇の下一元に結集し、国際社会で打ち勝って行く国家」と言うところでしょうか。
国際情勢も熟知しているし、貿易もすべきだと書いていることからも「富国強兵」ってことは言えると思います。
まあこのあたりは「軍国主義」で片付けてしまう困った人たちもいるんだけど
開国の流れ一つや国際情勢を見ても、力で植民地を獲得するような趨勢だったし
当然の考えでした!
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by enokama | 2012-01-11 23:47 | 中岡慎太郎関連 | Comments(0)