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エノカマの旅の途中

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中岡慎太郎論策~愚論窃かに知己の人に示す(慶応二年十一月)

中岡慎太郎年表→こちら
愚論窃カニ知己ノ人二示ス(慶応二年十一月 土佐の同志に向けた兵制改革論)
(要点のみ抜粋します)



海軍之事。
此儀ハ別テ不案内ナレドモ、窃カニ思フ二大二開カントスレバ、其船ヲ養仕法肝要ナルガ故二
大坂辺ノ豪商ト結ビ、洋商公会ノ法二習ヒ、商会ヲ結ビ、下ノ関、大坂、長崎、上海、香港等へ其局ノ者ヲ出シ
大二国財ヲ養ヒタラバ、海軍ノ助二ナルベシ

糧食野乏シキハ官ノ罪ナリ、器械フリハ官ノ罪ナリ。隊長役々其任二堪へザレバ、亦是官ノ罪ナリ。
今天下長州ヲ強兵ト云。然レドモ其風土人気ヲ見レバ、実二弱ナリ。
西郷吉之助ノ話二、今会津ヲ強ト云フ人アレドモ、我少シモ恐ロシカラズ、何トナレバ謀主人物ナキ故也。
長州二至ツテハ実二恐ル可シ。謀主二豪物アリ、故二事々非常二出ルト云フ。然レバ糧食、器械ノ本モ亦人材二在ル。

藩に対しては
総テ御国中一円鉄砲隊二成シ、御馬廻以下、家来又者等二至ル迄、皆一様ノ兵製二ナシ、何番隊何ノ某ト唱へ
兵二入ル者ハ苗字帯刀草履後免被仰付度事。
大砲小銃トモ、世界第一等ノ利器ヲ御求メ二相成リ、願クハ本込隊二成リ度シト思フ。
大砲御国ニテハ陸軍ニハ不用程ノ事ナリ、出軍ノ砲数ハ四門或ハ八門ニテ十分ノコトナリ。是モ最早ヤ
旋条砲本込等ニテ非レバ当時ノ用二立タズ。故二是迄ノ丸玉銃砲ハ、御国必要ノ分ヲ去ルノ外ハ、悉ク御売払二相成・・・
先ヅ軍局二入ル者ハ大抵十六七歳ヨリ三十歳ヲ限リトシ壮士ヲ撰ミ着実ヲ本トシ、其局二入リシ人ハ
実ノ戦士ニテ国家ノ軽重存亡ヲ、為ス大兵ナレバ、給料十分遣ハサレ、内職スルヨリ、兵二入リシ方ガ助ケ二成リ
所謂兵尚精、不尚多ノ理ニテ、先ヅ千人ノ兵ハ五百人二シテ、千人ノ入費ヲ与へ、兵粮、弾薬人夫等二至迄
必ズ精二シテ省クニ利有リ。

右ノ如ク兵制ノ事ヲ論ズレバ、只西洋好キニテ、攘夷ノ論ナドハ無キコトト、思フ人モ有ルべケレドモ
聊カ有志輩ノ定論ヲ書ス。
メリケン嘗て英ノ属国也。時二イギリス王利ヲ貪ル日々二多ク、米民益々苦ム。因テワシントンナル者
民ノ疾苦ヲ訴へ税利ヲ減ゼン等ノ数ヶ条ヲ乞フ。
英王不許、ワシントン米地十三邦ノ民ヲ帥ヒ、英人ヲ拒絶シ、鎖国攘夷ヲ行フ。
此ヨリ英米連戦七年、英遂二不勝ヲ知リテ和ヲ乞ヒ、メリケン英属ヲ免レ独立シ、十三地同盟合衆国ト号シ一強国ト成ル。


理想を大きく掲げても、まず金が必要なんです。
幕末の雄藩はいずれも「開国」と言う現実も利用しながら、財政改革の上で兵制改革・国防強化に乗り出しています。
福岡藩あたりも藩主の理想は高かったけど、結局は先立つものがなかったことが幕末の波に乗れなかった理由です。

西郷さんは「会津は怖くない」と言い切っていたようです。
最後の将軍・徳川慶喜が「我が方に大久保・西郷のような人材がいるのか」と嘆いたとも言われますね
(個人的には小松帯刀が一番すごいと思いますが)

藩に対する兵制改革は身分に捉われない登用も謳ってますが、このあたりはまだ吉田東洋が健在なれば
すでに実行されていて、土佐藩の改革はもっと進んでいた可能性もあったかとも思います。。。
ただ高杉流の農商兵等(奇兵)に関しては慎太郎は否定的だったと伝わります。
このあたりは庄屋の体験から、彼らの立場を尊重したいとの思いもあると言われています。
戊辰戦争でも農民が微兵されて「何々村から何人出せ」ってことで、くじ引きで泣く泣く選んだって話も残っています。
これで亡くなってしまうと、働き手も減ってしまうこと(生産力が減ることでの国力の衰退)で結果的に藩としてはマイナスになってしまいますからね。
「精兵主義」は薩摩・伊地知正治あたりの影響も受けているでしょう。

最後は慎太郎の言う「攘夷」の意味で、見つけ次第「夷人を見たら討つ」ではなくって
外国との対等な立場、はては民族独立の意味を説いています。
「攘夷」の精神って明治でもあったんですよ。
北海道の開発でも先日書いた琵琶湖疏水あたりでもね・・・
外国人に頼らずに(もちろん助言は仰ぐけど)あくまで事業は自分たちの手でってことで。

この論策は土佐の旧勤王党同志や乾退助らによって「土佐迅衝隊」の元ともなりました!
by enokama | 2011-12-21 23:00 | 中岡慎太郎関連 | Comments(0)