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中岡慎太郎の慶応3年秋~大政奉還・後藤象二郎の頑張りと揺れる芸州藩

中岡慎太郎年表→こちら

中岡慎太郎の慶応3年7~8月の出来事と言えば、やはり「陸援隊」の結成と
御陵衛士・伊東甲子太郎との接近が挙げられますが、この件はまた改めて書きたいと思います。
(関連記事→こちらこちら

7月の「薩土盟約」(→こちら)後、容堂の説得に向け、土佐に帰国した後藤象二郎だったが
その結果は薩摩の期待には程遠いものとなってしまった。



薩摩と同盟関係を築きつつあった芸州には、往復二十日を期して上京し
二大隊を率いてやってくると後藤は伝え、容堂の上洛時の常宿として借り上げることも多かった
大仏智積院も準備してあったと言う。
しかしパークスの土佐入りもあって一月が過ぎ、二月が経とうとしていた。

九月二日になってやっと大坂入り、西郷に会い、そして待ちかねて大坂に滞在していた芸州の辻・船越と会う。
しかし後藤は待たせた挙句、期待していた兵は連れてこずに丸腰であり
容堂への説得工作も不首尾であったことを告げる。  

 強迫の手段として兵を使うのはあくまでも不同意である。
 誠心誠意以て親切に幕府へ還政の事を忠告することが良策。

しかしこのころ随時、薩摩は兵を挙藩出兵(強硬派は「ゆくゆくは討幕挙兵」へとの思い)させるべく行動を始めていた。
七日に京都薩摩藩邸にて、後藤は小松・西郷と協議するが「出兵」の方針に決したと告げられ
九日に再度赴き、出兵の延期を薩摩に求めるが拒否。
この時点で「薩土盟約」の破約とされることが多い。

そして九月十八日に至って、島津久光の了承を受けて長州に大久保・大山綱良が赴き、藩侯に拝謁。
芸州藩・植田乙次郎も立ち会い「薩長芸」三藩での上洛出兵方針を決する(関連記事→こちら
一方、後藤の上洛を知った若年寄・永井尚志からは「大政奉還建白」の催促が再三あったが
西郷を始めとする薩摩側との調整に手間取っていた(土佐藩内にも「大政奉還」反対論があり影響した)
しかし、後藤は芸州の辻にターゲットを向け一角の切り崩し工作に入る。

 薩摩国元も不穏であり、実は薩州の論が討幕論と公武合体論にわれている。
 三郎さんなどは非討幕論であると云うことを或る某から聞いたのである。
 左様なことだから、もし薩州の論が違えれば独り斃れになるではないか。

もう少し薩摩の動向を見てから動けと説得し、辻は後藤の論に乗り
芸州も「大政奉還建白」提出へと動き、出兵の方針を一旦は撤回する。
このことで慎太郎は怒り「俺は後藤を刺す。船越は辻を刺せ」と言った回顧録がある。

事実、薩摩でも各派があって一枚岩ではなく、元来は「公武合体派」で容堂の覚えもいい(→ここここ
高崎猪太郎経由で小松への説得も開始する。

土佐は10月4日、芸州は10月6日に建白提出(本当は同時提出の予定であったという)
しかし10月8日、薩(小松・大久保・西郷)、長(廣澤・品川)芸(植田乙次郎・辻)が上記の同意に基づき
討幕の密勅を請うと言う一見、複雑な動きを見せている。
キーは小松だと僕は思うんですが「どちらに転んでも対応できるよう」との判断であって
決して何年か前の大河のような「非戦論者」とは言えないんですよね。
一方で西郷・大久保を盛んに警戒していた松平春嶽、小松に対しては同腹だろうと信頼していたことが
日記でも伝わるし(龍馬を暗殺したのが西郷らの陰謀と最初に書いたのもこの人)
かなり政略に長けた人だったのでしょう。。。

10月9日に龍馬は上洛。
土佐に武器を送った際、後藤が丸腰で上洛したことは知っていただろうけど
さて、どうなってるかなと思ってたら意外に頑張っていたことを知るんですね。
そこで龍馬は「行ける所まで行ってみるか」後藤への協力激励に徹することとなる。
ここで後藤が劣勢で「武力討幕」間近って言う情勢だったならば、龍馬の木戸への手紙にあったように
後藤には引いてもらって、乾退助を表に出して土佐を「討幕勢力の一角」に乗せる動きをしていたかもしれない。
まあその役目は慎太郎かもしれませんが。

あくまで僕個人の見解ですが
この時点での後藤の頑張り、そして建白を早々に受け入れる方針を出した慶喜の存在が
今の「坂本龍馬は平和論者」のイメージを作り上げたんじゃないでしょうか。
そうだったら、本当の平和論者は容堂になりますよね。。。
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by enokama | 2011-10-19 23:54 | 中岡慎太郎関連 | Comments(0)