エノカマの旅の途中

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中岡慎太郎と坂本龍馬~土佐へのライフル銃持ち込みの意味

ライフル銃の持ち込みは、大坂に行く予定の芸州藩船「震天丸」に途中、土佐に寄港するよう手配。
九月十八日、龍馬は菅野、陸奥、中島らと共に長崎港から乗り込んだ。
そして二十日には馬関(下関)に到着する・・・以下は佐佐木日記より。

其時一汽船の煙を挙げて東航するのを見て、才谷等も大に不審した。
丁度伊藤俊輔が京都から帰って来たのに問うた。
伊藤は京都の形勢を告げ、また其汽船に就て「実はあれは薩摩の船で、大久保一蔵が下関に来て
長藩の木戸と謀り、長藩に末藩の岩国長府清末の兵は下関に集合し、薩兵は小倉に進んで
時機を待って、緩急事に応ずる約束をして帰ったのだ」と云ふ。




才谷は今回の計画を伊藤に打ち明けると
「其準備夫頗る結構であるが、もし貴藩が因循で之を採用しなかったらならば、直にここに回航すれば
我藩で譲受けることに取り計ろう」という。
この一言には大に激励され「たとへ本藩で容れなくとも何でオメオメ長藩に持参することが出来やう。
一死を期して成功させよう」と誓った。
薩長の計画は着々進行して居るに引替へて、本藩は因循である。
最早一日も猶予はできぬと同所を出帆した。
(陸奥と菅野は別便で200挺を分与して京師に上らせた)


土佐に入り、藩士の岡内俊太郎(他は脱藩の身で公然上陸はできない)が旅装の風で種崎の旅店に潜居し
木戸の手紙を持参し、仕置役渡辺弥久馬、大目付本山只一郎と言った重臣同志の私邸にて事情を説明。
さらに両人は龍馬との面会を望み、夕刻に松ヶ端の茶店で密会。
購入の決意をし、藩論を挽回し遂に受け取りを了承した。
本山宛てには中岡慎太郎からの書簡がいくつか残されていて
「議論周旋は結構だが、武器を以て立つ決意も土佐には必要」と説得を受けていたが
実際に武器の斡旋を受け、龍馬からは薩長の実情を直に聞き決意を固めたわけである。

ここまでは完全に薩長の意向に沿い、そこへ土佐を参加させるべく龍馬は戦争に備えた準備をしていて
慎太郎との役割分担もうまくいってますよね。
この後、京都に上ってから少し事情が異なって違う動きも見せてくるのです。

長崎の佐佐木とはわずかな期間ながらも馬があったようで、その旅宿に日に何度でもやってきて
夜遅くなれば泊まっていくこと、しばしばだったと書き残しています。
この短期間でいっぱいエピソードもあり、この日記もなかなか面白いのでおすすめしたいです。


ちなみに京都へ送られたと言う、残りの200挺はどこへ行ったのでしょう。
先日の桐野さんの講演でもおっしゃってましたが、おそらく陸援隊に送られたと考えられます。
元は「翔天隊」として一つになる案もあった海陸両援隊で
その約款にも「海援隊の利益で陸援隊の活動資金にあてる」とあるので、そのあたりでの融通であり
陸援隊には大きな戦力になったでしょう。

ちなみにこの武器は慎太郎横死後、鷲尾隆聚卿の「高野山挙兵」に岩倉具視と図り
田中顕助が陸援隊士を連れ出したさいに「(白川)藩邸内の100挺ばかりの小銃」を持ち出しとあるので
この長崎から持ち込んだ銃だった可能性があります。
藩はこの時無断で起こした行動と見て追跡をしようとしますが、一行が内勅を奉じていると知り
見逃したとあります。
この時点で陸援隊は藩から離れ、のちに新政府直属の親兵として再編されます。
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by enokama | 2011-09-14 23:55 | 中岡慎太郎関連 | Comments(0)