エノカマの旅の途中

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中岡慎太郎と坂本龍馬~長崎・佐佐木高行とライフル銃購入の経緯

佐佐木は後藤・由比らとともに英公使・パークスとの須崎での談判に当たった後
本来の海援隊管轄等にあたる長崎出張官・後藤は前記のように本国での政務に没頭せざるを得ず
代わりに長崎に龍馬と赴き、事件の現地談判に対応することとなった。
長崎では一向に海援隊士の犯行の証拠が出ないまま、彼らは長崎奉行所の取り調べに粘り強く耐え
九月十日になって「お構いなし」との評決が出て、とりあえずの解決となった。

そんな中、土佐では乾退助が着々と兵制改革にて藩兵の操練に余念がないころだが
しかし土佐の地元での大多数の現実は、結果的に後藤が兵を連れられなかったことに見られるように
薩長と同調し、いざとなれば共に武器を持って立つ覚悟には到底遠いように思えた。
長崎の佐佐木と龍馬はここで一策を講じることとなる。。。


佐佐木高行(維新前は三四郎)は上士ながらも
国学を学んだ鹿持雅澄門下であって、同門の土佐勤王党盟主・武市半平太らと交流を持ち
小南五郎衛門・谷干城(守部)らと共に早くから上士「尊攘派」として行動し
文久2年(1862)の勤王党全盛時のころにも、その名が再三登場している(「維新土佐勤王史」)

藩主・豊範の下で保守派と尊攘派が連合した上で、改革派(吉田東洋一門)を暗殺と言う手段を
使ってまで追い落としたが、容堂の謹慎が解け復権した後は勤王党が弾圧となり
佐佐木の行動も限られたものになっていた。
その後、薩長同盟の風説が流れ風向きが変わったころから、容堂は佐佐木を各地の情勢探索に当たらせ
今回のような旧勤王党とも近い人物とも渡り合える折衝役として存在感を示すようになり
龍馬亡きあとの海援隊の指揮や、長崎奉行所の逃亡劇における「長崎会議所」の成立にも一役買い
維新後は初代司法大輔として(江藤新平の前任者)多発した暗殺事件等の対応に
比較的公平な目線で当たっている。

一方、幕末から維新政府の成り立ちまで、長期間に渡って綴った日記「保古飛呂比」は有名で
幕末維新を語る上で一級の史料とされている(日記と謳ってるが、のちに編集はされている)
それでは今回の記事は佐佐木の一文から




国元では乾が精鋭なる縦隊を組織してはあるが、兵器は大に不足を告げておる。
他日出兵といふ場合は到底間に合わぬ。自分はどうにかして之を整へたいと思った矢先
英型ミ二エー銃が(長崎港へ)到着したと云うことを聞きこんだ。
才谷(坂本)も是非之を購入したいというて、自分に相談して来たが、生憎役場にも商会にも
余裕が更にない。
処が九月十三日才谷が薩邸から大坂へ送る為替金があると聞いて、知らせてきた。
で「それを借りようじゃないか」 ・・・ 薩邸へ行って其中五千両を借用し、大坂に於いて
返済の契約をして二人で借用証を入れた。

其購入方は陸奥陽之助に命じた。
翌十四日蘭商バットマンの所へ行ってライフル千三百挺、一万八千八百両あまりで購入の約を定め
手付として、四千両を渡し、他は以後九十日間に支払うことに定めた。
其中百挺は商人に渡し(この商いに加わった二人に担保として)千二百挺を受け取って来たが
陸奥の依頼を入れて、二百挺を其同志の準備のため譲り渡すことにして、千挺だけ整へた。


原資は薩摩のお金を「ちょっと一時的に貸してね!」ってとこでしょうか?
こういう嗅覚は龍馬らしいって言うのかな・・・
それにしてもこれだけの大金、たぶん返すあてなどないよね(苦笑)
返すってこと自体考えてないかもしれない、船も沈めたところだし・・・
土佐も金なさそうだし、長崎貿易もまだこれからって感じだっただろう。
「取りあえず国に送っとけ、これで本国が変わるんだったらいいだろう」ってとこでしょうか。
まあ、あとは五代(才助)君がどうにかしたんでしょうね。

次はこのライフル銃の行方について・・・続きます!
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by enokama | 2011-09-13 22:42 | 中岡慎太郎関連 | Comments(0)