エノカマの旅の途中

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中岡慎太郎と坂本龍馬~後藤象二郎と土佐藩論

中岡慎太郎の薩長同盟以降の行動は
さらなる西国勤王雄藩の結集により、幕府に対抗できる力を構築することで
大村や鳥取と言った勤王派の強い藩への遊説や、急速に対幕に傾く芸州との提携はその一例であるが
最も懸念されたのが出身藩・土佐の動向で、ここで親幕になるか対幕となるかで
師・武市半平太の掲げた目標「薩長土」の同盟が課題となっていた。





小笠原・福岡と言った勤王派をむしろ弾圧する立場だった人物とも接近し
彼らも時勢を見て、従来の主張を変えつつあり
江戸にいた乾退助は「ゆくゆくは倒幕も」との意を固め、京に上り西郷との挙兵を盟約する(→こちら
五月二十四日の日記で慎太郎は、薩摩二本松藩邸に赴き「四候会議」の状況を聞きつけている。

 
 昨日来将軍参内、今朝未だ退かずと云。
 此夜三更、将軍退出。長防と兵庫港の二件朝命出る。

夜を徹する会議だったことが生々しく伝えられている。
結果を受け、慎太郎は福岡・乾・毛利・谷と一旦集まり、二十六日には西郷に合い乾・毛・谷決意のことを
論じ帰るとある。
翌日、乾は容堂に従い帰国、仕置役軍備用兼帯として事実上の土佐軍の指令官となり「武力討幕」
(薩長と行動を共にする)をも視野に入れた軍制改革を始めた。
武力討幕も辞さずとの決意を持った薩摩の討幕派との同調も慎太郎は強調したであろう。
一方で慎太郎の日記には金策らしい文言が目立つ。

 
 二十九日 松葉屋三十郎を以、小太夫に金之事三千八百申出る
 六月三日 大久保に逢、金の事論ず
 五日 新納(にいろ)内田より金三千金、大坂留守居え申遣すと云

この五日の両人は薩摩京都屋敷の留守居役である。
このあたりの薩摩とのつながりも注目すべきところではなかろうか。
この前後には宇和島の松根内蔵(家老・図書のことか?)とも会っている。
西郷の遊説時と違って(→こちら)四候会議での宇和島の態度は薩摩の倒幕論(廃幕論)にも傾いて
威勢のよかった容堂の体たらくぶりと違って、全体的に同調したように見える。
そのあたり薩摩との協調をさらに念押し、前進を期待したものだろう。


十四日には後藤象二郎が坂本龍馬と同船し共に上洛。
いろは丸の一件があって「四候会議」には間に合わなかったのだ。
この長崎からの船中で「船中八策」の話が出たとされるが(実は創作→こちら)二人は大政奉還論を伴った
建策を以て藩論とすべく、在京重役らとの折衝に臨む目的があった。
よく土佐のこのころの藩方針は「乾中岡ー後藤坂本」と並び称されることもあるが
大久保一翁や勝海舟、松平春嶽と言った幕府側の人脈もあった龍馬には後藤が接近しやすいこともあって
慎太郎が一旦方針を定めると論文や書簡を以て交渉をし目的に向かって突き進むのに対し
龍馬はその時勢の流れに沿った動きをし(西郷も意外にそんな一面があった)その交渉方も
現物(兵器等)を用いた実利を持って進めたのだ。
龍馬はのちの行動からも武力行使は容認してたし、話合いで済むのだったらそれでもいいと言う
考えだっただろうし「何が何でも戦争を避けたかった」と言う決めつけや、この後の薩摩要人各人の方針も
これだとは言い切れない面があると思う。

十五日、慎太郎は後藤、龍馬と相次いで面会。すでに慎太郎自身は大政奉還論を捨て去り
四候会議の結果を以て、武力討幕も視野にいれた薩摩の動きも伝え、後藤とはおそらく激しいやり取りが
あったと思われる。
ただ慎太郎の日記には後藤の在京中の動きが逐一書かれており、一定の行動(土佐藩論に「廃幕」との
意識)には理解を示したのかもしれない。
この後の龍馬との会談では、元来親幕でもある老公・容堂を説得するには、一気の武力討幕論を
持ち出すより、ワンクッション置いたうえでの大政奉還論を挟むことを龍馬は主張したのかもしれない。
(二人の考えの違いについては→こちらこちら
この用法は結果的に土佐案に薩摩が同調する格好で実現し、将軍・慶喜も受け入れることとなるのだ
(建白が出たからこそ、決断することができたとも言える)

十七日には土佐在京重役の会議で後藤の案を藩論として決す。
十九日の慎太郎日記には「芸州建白」なるとある。
芸州も薩長と協調した出兵も視野に入れながらも、のちに土佐同様に一旦建白(大政奉還論を含めた)を
出すこととなった(ただし土佐の建白よりも幕政批判が多く反省を求めた内容もあった。正式に藩主から
の上書は10月6日に出される)
ただ土佐同様の両論での振れを見せ、結果的に薩長より後退した形での維新を迎える。
そして二十二日にいわゆる「薩土盟約」が両藩重役の他、慎太郎・龍馬も立ち会いの上で成立する。
(文章の摺合せもあって、正式には7月2日成立)

ただし、これを幕府が飲まなかった場合は「武力行使」もあり得るという前提があってのもので
引き続き土佐兵の上洛を当然、後藤は求められた。
いざとなれば引くに引けなくなるので、土佐は薩長と並んだ討幕陣営に入らざるを得ず
それこそが今回の盟約を認めた薩摩の最大の理由でもあった。
一方、芸州藩の重役・辻将曹もこのころ上洛しており船越洋之助らとともに、後藤も接触し連携につとめた。

七月三日に後藤は幕府大目付・永井尚志と会談。むしろ永井は「建白の提出」を積極的に進めたとも言う。
そして後藤は容堂に方針を伝え、藩兵を引き連れて再上洛すべく帰国する。
しかし、また予期せぬイカロス号のアクシデントと兵の上洛を認めない容堂の抵抗にあって結果
長く待たせた上に「手ぶら」で後藤は一兵も連れず上洛することとなって、薩摩の失笑を買って盟約は
棚上げされることとなる

一方、六月二十一日(盟約締結の前日)には、仕置役・由比猪内と大目付・佐佐木高行が京師視察の
藩命を受け上洛。
この二人の働きかけで、活用されていなかった白川藩邸を「陸援隊」として使うこととなり
七月に正式に発足し、慎太郎こと横山勘蔵が隊長となって率いることとなる(→こちら
七月二十二日には長州・品川弥次郎が京に潜入し会い、一連の討幕工作に入ることとなる。
二十八日には後述のイカロス号事件の対応により由比・佐佐木も土佐帰国。

龍馬は一旦、長崎で海援隊士に嫌疑がかけられたイギリス人殺傷事件(イカロス号事件)の談判も絡んで
成り行きであったが久しぶりの土佐帰国がなったあと、八月十五日に長崎に戻った。
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Commented at 2011-09-12 09:27 x
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
Commented by enokama at 2011-09-14 02:15
>鍵コメさん
はじめまして!
まあ、ちょっとマイナーな記事中心でやっております(笑)
また、何か行事等情報ありましたらお気軽にご連絡ください!
こちらでも告知いたしますので。。。

これからもよろしくお願いします!
by enokama | 2011-09-10 23:41 | 中岡慎太郎関連 | Comments(2)