幕末の大垣藩と小原鉄心
大垣城外堀だった「水門川」を渡ると、元々の城郭地域で中心街となり
少し西側に入った所に天守閣があります(ただし平城で市街地からは眺められない)
最初はレンタサイクルを借りようと思ったんですがなくって、観光案内所で尋ねると
「歩きで十分ですよ」とのことで、一番南寄りのポイント「芭蕉結びの地」あたりでも
20分あれば大丈夫でした。
ただし、大垣は戦前まで現存天守があったものの
こちらも空襲を受けて再建されたものであります。。。
付近には戸田家菩提寺の円通寺や藩校敬教堂跡の碑、小原鉄心邸跡の碑も見られます。
お城の南側には戦災を逃れた古い家屋も見られますが
全般に昭和30年代って感じの商店街が見られます、
ただ駅北口の工場跡が再開発されて、ショッピングセンターができた影響で
賑わいの中心はそちらに移りつつあるようです!
この大垣は江戸時代、一貫して譜代大名の戸田氏(十万石)が治めました。
東西を結ぶ要地として重要視されたもので、幕末もその意向が大きく流れを左右しました。
また文化人を多数輩出したことでも知られ、松尾芭蕉の結びの地でもあり
「文教の町」として知られております。
お城の西側には戸田家代々の宝物を集めた「郷土館」があり、歴史史料が集められています。
代々の藩主の紹介がありますが「暗君」と呼ばれたような人物は少なかったようですが
飢饉や幕府からの普請など、各藩共通の財政問題には苦悩の跡が偲ばれます。
また学問では、庄内藩同様に「徂徠学」としていたことも特色であります。
小原鉄心顕彰碑(天守閣下)
幕末の大垣藩の傑物と言えば小原鉄心が知られています。
このころの大垣藩は譜代の立場ながら、安政のころの藩主・氏正は水戸の徳川斉昭や
尾張の徳川慶勝と結んだ改革派の立場でもあり、藩の儒家や庄屋・知識人らには
「尊王論」が根強くあり、梁川星巌・所郁太郎と言った勤王志士・思想家を生みました。
鉄心は会計方として藩政改革にあたり冗費の節約、殖産産業の振興につとめ
「お金のわかる」人物であって、一定の成功を収めて藩主からも褒賞を受けている。
この鉄心が幕末に名を残したきっかけは、あのペリー黒船来航であった。。。
時の浦賀奉行・戸田氏栄は、深坂(現在の谷汲に近いあたり)戸田家分家の出であり
その依頼で本家・大垣藩はペリー艦隊の警戒にあたり、嘉永6年(1853)と翌年の再来航の
二度に渡って鉄心は兵を率いて赴いている(→関連記事)
この艦隊には大きな衝撃を受け、また高島秋帆や佐久間象山、大槻盤渓と言った先覚者との知遇を得て
帰国した鉄心は、兵制改革を行い、一気に西洋式に改め、鉄砲隊を中心とした幕末きっての
精鋭部隊を作り上げ、その動向は幕府側・倒幕側いずれにも大いに関心を集めた。
また藩医で蘭学の大家でも知られた江間蘭斎の娘・細香は、詩人・画家として高名であり
頼山陽はその才能美貌を愛し、愛人としたほどだったが、その詩友として
梁川星巌との付き合いもあり、盟友の佐久間象山・吉田松陰からも国防の重要性を知らされていた
星巌は、西洋式改革に邁進する鉄心を応援するとともに「尊王思想」を植え付けたかもしれない。
文久2年(1862)病もあり、一時職を辞した鉄心は上方・北陸を遊学し
福井では長谷部甚平らと国事を論じ、前藩主・松平春嶽にも拝謁する機会を得た。
慶応4年(1868)鉄心は、朝廷から新政府の参与としての命を受ける。
彼を評価した松平春嶽の強い推薦があったと言う。
さあこれから新国家をどうするかと言った時期に「鳥羽伏見の戦い」が起きた。
そして旧幕府側の大坂警備についていた大垣藩兵は、譜代藩としての立場で戦端が
開かれようとしていた(先鋒を務め、犠牲者も多かったと言う)
そればかりか、その大将は義理の息子・小原兵部であった。
鉄心は決断し、持論である「尊王論」で朝廷(新政府側)につくとし(→こちら)
兵部に戦いを辞めさせるべく、信頼のおける盟友で大垣では儒家として知られた
菱田海鷗を使者として送ることとする。
しかし海鷗は途中、長州兵につかまり「賊」として斬られそうになったが
次の辞世の詩をしたためた。
苦学して君父の恩に報いんと欲し、一灯空しく伴う三十余年
従容として死に就かんとす是れ今夕
只恨む丹心の未だ天に徹せざるを
この素直な気持ちにうたれた隊長は、死を免じた・・・
鉄心は次なる使者を送るが間に合わず、大垣藩は賊軍とされる危機となったが
岩倉具視にはかり、また国元で藩論を固めて、新政府軍の先鋒となることで藩は安泰をされた。
旧幕府側にとっては有力な同盟の一角が崩れたこととなる。
見方によっては「裏切り」呼ばわりする人もいるかもしれないが
多彩な人脈と交流で培った鉄心の考えと決断は、決して「その場のがれ」の思いでなく
信念を持ったことで可能となったことをわかってほしいと思います。。。