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エノカマの旅の途中

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武市半平太「恨無限」と慎太郎の死を伝えた手紙

先週金曜日に霊山歴史館に行ってたんですが
その時に学芸員さんから、武市半平太の発見の話をお聞きしました。

こちらも佐川・青山文庫名誉館長の松岡司さんの発掘です。
ニュース記事→こちら

幕末の土佐勤王党盟主・武市半平太(瑞山・1829~65)が、切腹直前に「恨(うらみ)無限(かぎりなし)」
などと無念さをつづった漢詩の書。獄中で記したとは思えないほど立派な書は、信頼していた
牢(ろう)番に贈られたものだった。1世紀半を経て初めて世に出たことに、14日発表した
高知市立龍馬の生まれたまち記念館や専門家らは「よくぞ残ってくれた」と驚きを隠さない。

武市は獄中で漢詩を詠み始め、約50首を「メモ書き」した雑記帳が残されているが、作品としての書は現存
しないとされていた。贈られた牢番・門谷貫助(1843~94)は武市に心酔し、武市も信頼していたと伝わる。

書を保管していた高知市の植田夏彦さん(故人)が残した由来書によると、門谷が
「一生の記念、一家の宝に何か書きて給(たま)はらぬことを乞ふ」と武市に頼んだという。
夏彦さんの父、重治さんは、門谷と同じ同市春野町西分に住んだ富農で、門谷と交流があり
何らかの形で家蔵したらしい。

夏彦さんに受け継がれた後も、奇跡的に残った。戦前、単身で朝鮮半島に渡った際には書を持参し
日本人学校で教師を務めた。終戦後の引き揚げで、食料や衣類を手放しても、この書だけは
「危急の折といへども放棄するに忍びず、表装を外し一巻となしてリュックサックに負ひて帰るを得たり」と
辛うじて守り抜いたという。

書を鑑定した松岡司・前佐川町立青山文庫館長は「改革を果たせなかった無念さは、武市が
何よりも言いたかったこと。最も信頼した門谷だから託せたのだろう。海を越え、代々大切に
されるに足りる、残すべき作品」と感慨深げだった。


高名な政治犯に対して、心酔した牢番がなにかと便宜を図ったと言う話は
幕末でも結構あるわけですが(牢番自身が身分の低い者が多いため、境遇の近い彼らを遇した)
半平太に対しても、牢では比較的恵まれていたそうで、その礼として彼らに得意の絵を送ったり
このように書を送っていた。
それにしても牢で書いたとは思えない、確かに立派な書です。
そして、この文言を選んだのも、長い獄中での壮絶さを感じます。。。

「主君の命に従う」とは表向きであって、左向き右向きの藩方針のぐらつきで犠牲になった家臣らは
結構、長州などを見ても決して納得して「死を賜る」ってことはなかったようです。
「~の獄」で切腹などと、あっさり文章で片付けてしまいがちだけど
一つ一つのその犠牲にもドラマがあったんだろうし、そんな面の伝わる今回の発見はとても貴重な
物だと思います。。。
この書の残った経緯を見てもドラマチックですね!

それと未だに、去年の大河を引きずってる人やら(あんなデタラメ話を)
相変わらず半平太をテロリスト呼ばわりする輩がいるけど
結果論だけで物を言うなってんだ。
その道が間違ってなかったって思いがあるし、結局は主君に受け入れられなかったんだ。
「わしがまちがっちょった」そんな思いで死んだのではないってことは、はっきりわかるでしょう。。。

今回の記事はたくさんの新聞に載っていたようです。
松岡さんのこれからの活動も期待しています!



こちらの話も、霊山歴史館に高知新聞のコピーが貼ってありまして
やっと知りました(ネット記事はすでに消滅のもよう)
くぐったところ、北川村観光協会さんのブログに記事が載ってました→こちら
去年、北川村に行ったとき(→こちら)に妻・兼の実家である利岡家の資料が展示してあったんですが
そのころの庄屋の情報収集力には、本当に驚いたものなんです。
そして「慎太郎の暗殺を伝えた手紙」が利岡家(源七と言う人物)のネットワークにより伝わり
原本がこのほど北川村に戻ってきて「中岡慎太郎館」に、通年展示される方向で進んでいるそうです。
(今回の展示は6月で終了)

それにしても幕末の情報収集力は人力に頼るだけなのに
その伝達の威力は恐るべきものがあります。。。
こちらも貴重な発見だし、北川村で所蔵・展示されることは大変うれしく思いますね!

夏休みの企画展もよさそうです→こちら
by enokama | 2011-07-18 23:19 | 土佐藩 | Comments(0)