エノカマの旅の途中

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中岡慎太郎と西郷隆盛~四賢候を招集せよ

慶応2年(1866)「四境戦争」の終わったころ
中岡慎太郎は西郷従道とともに、約半年ぶりに(「薩長同盟」の後を見届けて以来)上洛する。
京師の状況視察のためで、薩摩二本松藩邸を根城とし
7月に将軍家茂の急死を受けて徳川家督を相続し、幕政をリードし
12月には、正式に十五代将軍となった慶喜の動き。
そして蟄居中に倒幕派に転向した、岩倉具視の下での朝廷の倒幕勢力の動き。

そんな中、行行筆記という11月16日からの慎太郎日記には
伊地知、小松、西郷、吉井と言った薩摩要人との会談の様子が再三にわたって書かれている。
そこには土佐の意外な人物との接触もあった。。。




11月に「第二次征長」(四境戦争)での長州の勝利を受けた懸案の「長州復権問題」
翌年に期日の迫った「兵庫開港問題」において、朝廷は諸侯会集を求めたが
その指名を受けた土佐・山内容堂は病気と称して辞退、その名代として側近の福岡藤次と
小笠原唯八を上洛させた。
容堂の思いはこれまでの「幕府一辺倒」の方針よりも、今の情勢を見た薩摩への情報収集及び
接近を図ることで、藩重役・小松帯刀を訪ね、西郷・吉井とも会談を持った。
二人は雄藩・薩摩の実力を知り、藩方針の変更も悟ったことだろう。
また薩摩人との会話で名が出たかもしれないが、ここで石川と称する土佐脱藩実力者の存在も知った。

小笠原唯八は元来、上士でも乾退助と並ぶ「尊攘論者」である。
密かに慎太郎と結び、このころ江戸詰であった退助は藩邸内に多数の尊攘派浪士を囲う
ほどの存在になっていたが、小笠原は信条を通づる面がありながらも「土佐勤王党」の行動には終始
批判的な行動を取り「野根山二十三士」の決起においては、尽く斬罪に処した張本人であった。
12月28日に慎太郎はその小笠原と会っている。慎太郎にとっては、姉夫・川島総次の仇でもあり
心中どんな心境だっただろうか…
「いっそ斬り捨ててやろうか」その思いをぐっと飲み込んだ。
そんな恩讐を覚悟の上で、こうして会いにきた小笠原の必死な思いを汲んで
これから土佐の行くべき道を諭したことだろう。
この小笠原を皮切りに、土佐有力官僚らの「洗脳」に慎太郎は今後の土佐への期待をかけた。
福岡、後藤、佐々木と言った官僚らの多くは幕府との妥協の面もあった「大政奉還論」に動き
慎太郎の行きついた結論「武力討幕」に踏み切るまでには行かなかったが
小笠原はこの後、頑強な討幕派としての立場を貫き、会津にも従軍し
鶴ヶ城にて陣頭指揮のさなか銃弾を受け、戦死をしている。

年も押し詰まった12月25日、孝明天皇が急死した衝撃の報が伝わる。
佐幕であり、外国嫌いだった天皇の死は翌年の動きに大きな影を落とす。
年が明け、慎太郎は薩長藩士らと海路、呉越同舟で下関に上陸(薩摩藩士は黒崎へ渡る)
5日には高杉を見舞い(これが最後の対面)時勢を論じ、旅亭に戻り田中顕助、中島作太郎らと小酌。
そして、慎太郎の下関入りを聞きつけた坂本龍馬(「馬関商社」の設立計画や商務もあって来関。
前年後半から比較的長い滞在だったもよう)と「頗る快談」
「鶏鳴に至りて坂氏去るとあり」夜を徹して話し込んでいたようだ。

この慶応2年末、慎太郎と薩摩首脳の間で今後の計略策をまとめていた。
下記が西下中に書かれた、木戸(桂)あての手紙でその事情がよくわかる。。。


西下船中より愚礼拝呈仕候。
然バ旧蠟之御大事、実以驚愕絶言語奉恐入候次第、恐哀痛哭之至二不堪候。
多年之御苦慮も何卒して運霧開発仕候恐多も積年不抜之
叡慮を尊奉し、一度天日之明を仰むと之義も洸として夢之如きに相成、悲痛之至奉存候。
此度は井原君御同道、別御世話相蒙り申候。
先は右得ご意度  恐こう謹言

正月三日 石川清之助

木戸貫二様 足下

天下之事此れ二至り天災地妖交至ルトヤ云ハン、其上二外夷之患日に差迫り姦物那之驕暴
不至処なく、向来之事如何行くべき哉ト、出足前日密二一愚策ヲ立、西郷等二迫り候処、
西郷も大に意二適し候様子也。僕又弊藩出京之有司二密会し、意見ヲ尋ヌル二、是も同論之事二
其由を帰テ西郷二談じ、西郷大二喜び、遂に出足之日西郷僕二謂テ日。
今夜小太夫(小松帯刀)之舎二会し、事を議決し、決成ルノ上、直様帰国之之也ト。
極秘之事二付、子細ハ難申上、いづれ後面上之節御高慮可奉窮と奉存候。
西郷等帰国之上、西、小両人等之内弊藩(土佐)江も使節二行筈二御座候。
後れながら弊藩も此比余程奮起し、老公(容堂)も大分志ヲ起し候由に、先日来実ハ君側之者壱両人上京
僕等二も面談せよとの密命の趣二、度々面会仕鼓舞仕候事共二御座候。
御一笑奉願候。頓首

尚西郷ト謀リし事ハ後面上二可申上候間、先づ先生御壱人二御聞置被下度奉存候。草々


慶応3年(1867)5月の「四候会議」の企てを示したもので
慎太郎が働きかけて「薩摩主導」での開催に向けての動きを木戸に報告している。
土佐の風向きもよくなってきたと、最後の二行では「容堂が慎太郎にも会うように指示した」
とも見える。

前半の文面は「孝明天皇崩御」の報(速報)を伝えている。
天朝を尊ぶこと深い慎太郎には衝撃の報で、大宰府に戻った10日の日記には
その時の五卿の様子を「五卿慟哭無止、余亦爲泣下、仰ぎ見ること不能」と記している。
もし、この時巷で聞かれ、最近の発行書籍にも書かれるように相変わらず根強い
「岩倉・天皇暗殺説」があったとなら、この時の慎太郎・五卿の様子から
のちに三条と提携させる岩倉具視にそんな風聞があったとしたなら
「信用」が得られるはずもなく、不可能なはずで
そんな暗殺は、なかったと言うのが当然なことである!

この後、慎太郎は西郷ら薩摩要人と手分けして「四候会議」に向け
走り出す。。。
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by enokama | 2011-06-29 23:55 | 中岡慎太郎関連 | Comments(0)